四半期に一度の役員会。新規事業チームがプロトタイプのデモを終え、拍手が起こった直後、CFOがひと言だけ挟む——「面白い。それで、これはどう売上や市場シェアにつながるんだ」。デザイン思考のワークショップを率いてきたリーダーは、そこで言葉に詰まる。「創造的だから」以上の答えを、役員会の言葉に翻訳できていなかったからだ。
『The Design of Business: Why Design Thinking is the Next Competitive Advantage』は、この沈黙を埋めるために書かれた本です。著者のロジャー・マーティン(Roger L. Martin)は、トロント大学ロットマン経営大学院の元学長(1998〜2013年在任)であり、Thinkers50(世界の経営思想家ランキング)の常連。IDEOのようなデザインファーム出身の実践者ではなく、経営学者の立場からデザイン思考を分析したという点が、本書を他の入門書と一線を画すものにしています。原著はハーバード・ビジネス・プレスより2009年に刊行(ISBN-13: 978-1422177808)。なお日本語訳の存在は確認できていません——本稿は原著をもとにした書評として執筆しています。
知識ファネル——企業の知識はどう進化するのか
マーティンが本書の中核に据えるのが「知識ファネル(Knowledge Funnel)」というモデルです。企業が扱う知識は、次の3段階を経て進化すると彼は説明します。
- Mystery(謎) — まだ何も分かっていない、未解明の問題領域
- Heuristic(経験則) — 試行錯誤を通じて見えてきた、再現性のある勘どころ
- Algorithm(アルゴリズム) — 誰がやっても同じ結果が出る、標準化された手順
企業は成長するにつれて、Mystery(謎)に向き合う段階からHeuristic(経験則)を経て、最終的にAlgorithm(アルゴリズム)へと知識を磨き上げていきます。この過程そのものは合理的で、効率化・標準化は競争優位の源泉になります。
問題は、多くの成熟企業がAlgorithmの最適化に集中しすぎるあまり、新しいMysteryに向き合う筋力を失っているとマーティンが指摘する点です。過去のデータに基づいて磨き上げられたアルゴリズムは信頼性が高い一方、次の変化を予見する力を持ちません。デザイン思考の役割は、この「Algorithmに固まった組織」を、もう一度Mysteryの段階に引き戻すことにある——これが本書の核心的な主張です。
この主張の具体例として、マーティンが本書や関連の講演・論考でたびたび取り上げるのが、A.G.レイフリー(A.G. Lafley)体制下のプロクター・アンド・ギャンブル(P&G)です。消費者の生活に入り込み、まだ言語化されていないニーズ——すなわちMystery——を掘り起こす仕組みを組織に持ち込んだP&Gの取り組みを、Algorithmの最適化に偏りがちな大企業がMysteryへ回帰した事例として引き合いに出す、という趣旨の言及が本書には見られます。
この構造は、なぜ組織が新しい取り組みを避けるのかという心理的な側面とも地続きです。その仕組みはデザイン思考と認知バイアスで立体的に解説しています。
アブダクション——第三の論理としての仮説的推論
もう一つの理論的支柱が「アブダクション(Abductive Reasoning、仮説的推論)」です。マーティンは、ビジネスの意思決定を支える論理を次の3種類に整理します。
- 演繹(Deduction) — 前提から必然的に導かれる結論
- 帰納(Induction) — 過去のデータから一般法則を導く推論
- アブダクション(Abduction) — まだ証明されていないが、最も説明力のある仮説を立てる推論
演繹と帰納はどちらも「既に分かっていること」を土台にします。しかしアブダクションは、データがまだ揃っていない段階で「これが最も筋の通った説明ではないか」と仮説を立てる、いわば論理的な跳躍です。
ここでマーティンが持ち込むのが、**信頼性(Reliability=再現性・データの裏付け)と妥当性(Validity=新しい価値への適合)**というトレードオフです。既存のAlgorithmは信頼性が高い代わりに、新しい価値への適合度(妥当性)は保証されません。逆に、まだ検証されていない仮説は妥当性を追求できる一方、信頼性は低い。経営とは、この2つのバランスをどこに置くかという判断の連続だ、というのがマーティンの見立てです。
デザイン思考のプロトタイピングや仮説検証サイクルは、まさにこのアブダクションの実装だと本書は位置づけます。「作って、見せて、確かめる」という反復のプロセスは、単なる発想法の手続きではなく、信頼性の低い仮説を少しずつ検証可能な形にしていく論理的な営みである、という読み替えです。
本書がこのアブダクション的な跳躍の好例として挙げるのが、リサーチ・イン・モーション(RIM、BlackBerryの製造元)です。マーティンは、RIMが知識ファネルを素早く往復し、Appleに先駆けてスマートフォン市場に製品を投入した組織として、デザイン思考型の意思決定を体現する成功例に位置づけています。
もっとも、本書の刊行は2009年であり、BlackBerryが市場の主導権を失っていく凋落局面は2011〜2013年頃に本格化します。マーティンが執筆当時それを知る由もなかったことは踏まえた上で、刊行から十数年を経た今この事例を振り返ると、皮肉にも別の教訓が浮かび上がるようにも思えます——一度Mysteryへの跳躍に成功した組織が、その跳躍力を保ち続けられるとは限らない、という教訓です。物理キーボードという当時磨き上げた「アルゴリズム」に安住し、タッチスクリーンという次のMysteryへの再度の跳躍に踏み出せなかったことが、後年のRIMの失速につながったのだとすれば、本書の枠組みは奇しくも、自らが称賛した成功例の後日談までも説明してしまっているのかもしれません。
『Change by Design』との補完関係——実践のブラウン、理論のマーティン
本書と同じ2009年に、もう一冊のデザイン思考の古典が刊行されています。IDEOの当時のCEO、ティム・ブラウンによる『Change by Design』です。
この2冊は、同じテーマを異なる立場から論じた「対になる古典」と言えます。ブラウンはIDEOという実践者の視点から、デザイン思考のプロセス(共感・発想・プロトタイピングの進め方)を豊富な事例とともに語りました。一方マーティンは、経営学者の視点から、そのプロセスがなぜ機能するのかを知識ファネルとアブダクションという論理構造で裏づけています。
ワークショップの「やり方」はブラウンの著作から学べます。しかし、それを役員会で「なぜ有効なのか」と問われたときに答える語彙は、マーティンの著作の方が用意してくれます。両者を合わせて読むことで、「実践できる」だけでなく「説明できる」デザイン思考の理解に近づけます。ブラウンの著作をさらに深く検証したい場合は、『Change by Design』を批判的に読み直す書評も参考になります。
著者のマーティンについては人物記事「ロジャー・マーティン」で、知識ファネルと「統合的思考(Integrative Thinking)」との関係をより詳しく解説しています。本書の位置づけを掴みたい場合は、デザイン思考(用語解説)で全体像を確認できます。
知識ファネルの限界——診断と処方箋の分業
ここまで紹介してきた知識ファネルとアブダクションは、たしかに強力な診断ツールです。ただし読み終えて率直に思うのは、このモデルは「Algorithmに固着した組織が、なぜMysteryに戻れないのか」を説明する解像度は高い一方、「では実際にどう戻るのか」という実装面への踏み込みはやや薄い、という点です。P&Gの例が示すように、Mysteryへの回帰が奏功した組織の姿は事後的には明快に語れます。しかし、既存の収益源であるAlgorithmを回しながら、いつ・どの程度のリソースを未検証のMysteryへ振り向けるかという社内合意形成のプロセスまでは、本書のフレームだけでは十分に描き切れていません。
この余白を埋めるのが、まさにブラウンの『Change by Design』が語る実践プロセス(共感・発想・プロトタイピング)だと筆者は考えています。マーティンの理論は「なぜ変わるべきか」を経営の言葉で語る武器を与えてくれますが、「どう変わるか」の具体的な手続きは実践書に委ねる必要がある——両者は優劣で比べるものではなく、診断と処方箋という役割分担にある、というのが本稿の見立てです。
この本を読むべき人
- デザイン思考のワークショップ手法は一通り実践してきたが、それを経営会議の言葉で説明できずに苦戦している新規事業責任者・イノベーション推進担当者
- 『Change by Design』などの実践書は読んだが、「なぜ機能するのか」の理論的な裏づけを求めている人
- 「創造的だから」以上の言葉で、デザイン思考の価値を経営層に語りたい経営企画・戦略担当者
デザイン思考を初めて学ぶ入門読者にはやや抽象度が高く、まず実践のプロセスを掴みたい場合は前述の『Change by Design』から入る方が読みやすいかもしれません。
結論
デザイン思考は、発想法でもワークショップの手法でもありません。マーティンが本書で示すのは、それが企業の知識がどう進化するかという経営理論である、という一線です。知識ファネル(Mystery→Heuristic→Algorithm)とアブダクションという2つのレンズは、自社の意思決定がどこに偏っているかを診断する道具になります。
次の経営会議の前に、自社の直近の意思決定を1つ選んでみてください。それはAlgorithm(過去データの最適化)に立っているのか、それともまだ検証されていないMysteryやHeuristicへの投資なのか。この問いを持てるようになることが、本書を読む一番の実利です。
書誌情報・参考文献
- Martin, R. (2009). The Design of Business: Why Design Thinking is the Next Competitive Advantage. Harvard Business Press. — ISBN-13: 978-1422177808(日本語訳の存在は本稿執筆時点で未確認)
- Brown, T. (2009). Change by Design: How Design Thinking Transforms Organizations and Inspires Innovation. HarperBusiness. — ISBN: 978-0061766084
- Thinkers50, “Roger Martin,” thinkers50.com