デザイン思考はなぜ機能するのか。この問いに正面から答えようとした経営思想家ロジャー・マーティンは、その答えを19世紀の哲学に求めた。チャールズ・サンダース・パース(Charles Sanders Peirce, 1839〜1914)が定式化したアブダクション(仮説的推論)——演繹でも帰納でもない、第三の推論形式である。
三つの推論形式の違い
人間の推論をパースは大きく三つに分類した。それぞれの機能と限界を理解することが、アブダクションの本質に迫る最短経路となる。
演繹法(Deduction)は、確立された前提から必然的に正しい結論を導く。「すべての人間は死ぬ。ソクラテスは人間だ。ゆえにソクラテスは死ぬ」。数学や論理学の領域で威力を発揮するが、前提そのものの正しさは検証できない。既知の解から既知の結論へと進む推論であり、新しいものは何も生み出さない。
帰納法(Induction)は、多数の事例の観察から一般法則を導く。「この袋から取り出した豆は白い、また白い、また白い——したがってこの袋の豆はすべて白いだろう」。科学的実験の多くがこの形式をとる。ただし過去の観察から未来を予測するものであり、前例のない問題には対応できない。
アブダクション(Abduction)は、驚くべき観察から出発する。「この豆は白い(驚くべき事実)。もしこの袋の豆がすべて白いなら(仮説)、この豆はこの袋から来たはずだ(最も妥当な説明)」。パースはこれを「仮説形成(Hypothesis)」とも呼んだ。アブダクションは説明を求めて仮説を生成する推論であり、創造的思考の論理的基盤だ。
パースの定義を正確に引用すると「驚くべき事実Cが観察される。しかしもしHが真であれば、Cは当然のことになる。したがって、Hが真であると疑う理由がある」。仮説Hは確実ではない。しかしアブダクションなしに、人間は新しい理解には到達できない。
ロジャー・マーティンの読み解き
マーティンが2009年の著書 The Design of Business: Why Design Thinking Is the Next Competitive Advantage(邦題『ザ・デザイン・オブ・ビジネス』)で展開した主張の核心は、デザイン思考の知的エンジンがアブダクションであるというものだ。
マーティンは「ナレッジファネル」という概念を提示した。ビジネスにおける知識の進化は「謎(Mystery)→ヒューリスティクス(Heuristic)→アルゴリズム(Algorithm)」という段階をたどる。多くの企業はアルゴリズムの最適化(効率)に集中するあまり、謎の段階——つまりイノベーションの出発点——への投資をやめてしまう。
この謎の段階で機能するのがアブダクションだ。演繹法では「どうすれば既存のアルゴリズムを改善できるか」しか問えない。帰納法では「過去のデータが示すパターンは何か」しか見えない。しかしアブダクションは「観察された現象を最もうまく説明する新しい仮説は何か」を問うことができる。アブダクションこそが、企業が謎の段階に踏み込むための論理的装置だとマーティンは論じた。
マーティンはさらに、多くのビジネスリーダーがアブダクション的思考を「直感」と混同していると指摘する。アブダクションは根拠なく結論に飛ぶ直感ではない。観察された事実を出発点とし、最も説得力ある仮説を構造的に生成する論理的推論だ。デザイン思考の実践者が「データを見て仮説を作る」と言うとき、その思考の形式こそがアブダクションである。
デザイン思考プロセスとの対応
デザイン思考の5フェーズ(共感・定義・創造・プロトタイプ・テスト)は、アブダクションを体系的に運用するフレームワークとして読み解くことができる。
共感フェーズでのアブダクション
ユーザー観察とインタビューの場で、実践者は「驚くべき行動」に繰り返し出会う。「なぜこの人はこんな使い方をするのか」「なぜここで詰まるのか」という驚きに対して、「もしかしたらこういう理由があるのかもしれない」という仮説を生成する。この瞬間がアブダクションだ。観察を積み重ねるだけでは仮説は生まれない。驚きを起点とした仮説生成の行為が、データと洞察の間を架橋する。
定義フェーズでのアブダクション
複数のインタビューデータを前に「これらの観察をすべて説明できる根本的な洞察は何か」と問うとき、チームはアブダクション的に思考している。データが直接答えを教えてくれるわけではない。データを最もうまく説明できるインサイトを思考が生成する。この生成行為そのものがアブダクションであり、ダブルダイヤモンドの最初の収束——「正しい問いを定義する」段階——の論理的基盤となっている。
プロトタイプフェーズでのアブダクション
プロトタイプを作る行為は、「もしこの設計であればユーザーは使えるだろう」という仮説を物理的・デジタル的に具現化することだ。プロトタイピングはアブダクションの産物であり、テストはその仮説の検証プロセスとなる。マーティンが強調するように、デザイン思考の価値は「正しい答えを出すこと」より「より良い仮説を素早く生成し検証すること」にある。
「やっかいな問題」との関係
やっかいな問題(Wicked Problems)——複雑で構造化されていない課題——に演繹法と帰納法が有効に機能しない理由は明確だ。演繹法が必要とする「正しい前提」が存在せず、帰納法が依拠する「十分な過去の事例」もない。しかし現実のビジネス課題の多くは、この「やっかいな問題」の特性を持つ。
アブダクションは、前提が確立していない状況でも思考を前に進める。観察から仮説を生成し、仮説を検証し、検証結果を新たな観察として次の仮説に活かす——このサイクルこそが、不確実性の高い環境で機能するデザイン思考の動作原理だ。
ワークショップでの観察
200回以上のワークショップで繰り返し観察されるパターンがある。参加者がデータを「分析」し「解釈」しようとするとき、多くの場合は帰納法の枠で動く。過去の事例に当てはめ、パターンを探す。しかし「驚くべき観察から最も妥当な説明を考える」というアブダクション的な問いかけに切り替えた瞬間、チームの思考の質が変わる。
具体的には、以下の問いかけが有効だ。「このユーザーの行動で最も驚いたことは何ですか」「その驚きを説明できる仮説を3つ挙げるとしたら」「その3つのうち、最もデータに整合する仮説はどれですか」——この問いの連鎖がアブダクションを実践的な場で起動させる。
理論を「手触りのある実務」に翻訳することが、デザイン思考の使命だとすれば、アブダクションはその翻訳作業において最も核心的な思考形式である。演繹と帰納を使いこなすビジネスパーソンは多い。しかし「驚きから仮説を生成する」というアブダクション的思考を意識的に鍛えている人は少ない。ここにこそ、デザイン思考が提供できる知的価値がある。
参考文献
- Roger Martin, The Design of Business: Why Design Thinking Is the Next Competitive Advantage, Harvard Business Press, 2009(邦訳:『ザ・デザイン・オブ・ビジネス』)
- Charles Sanders Peirce, Collected Papers of Charles Sanders Peirce, Harvard University Press, 1931–1958
- 米盛裕二, 『アブダクション——仮説と発見の論理』, 勁草書房, 2007
- Kees Dorst, “The Core of ‘Design Thinking’ and its Application”, Design Studies, Vol.32, No.6, 2011