ビル・モグリッジ(Bill Moggridge、1943–2012)を一言で表すなら、「デジタルの世界に人間の視点を持ち込んだデザイナー」です。1970年代後半から2000年代にかけて、コンピューターは爆発的に普及しました。しかし「人間がどう使うか」を先に問う設計は、当たり前ではありませんでした。
モグリッジのキャリアは、その当たり前でなかったことを当たり前にしていく過程です。
原点:ロンドンから世界へ
1943年、イギリス・ロンドン生まれ。Central School of Art and Design(現Central Saint Martins)でデザインを学んだモグリッジは、1969年にロンドンで自身のデザイン事務所を設立します。
1977年、事務所をサンフランシスコに移転。シリコンバレーが産業の中心として台頭し始めた時代に、モグリッジはインダストリアルデザイナーとしてテクノロジー企業と協働を深めていきます。この地理的な移動が、彼とデジタル技術の出会いを加速しました。
GRiD Compass(1982年):最初のラップトップ
モグリッジの名を歴史に刻んだ最初の仕事は、GRiD Systems社のために設計したコンピューター「GRiD Compass 1101」です。
1982年に発売されたGRiD Compassは、折り畳み式のスクリーンを持つクラムシェル型デザインを採用した最初のコンピューターとして記録されています。重量約4.5kg、価格約8,150ドルという制約の中で、モグリッジが解いた問題は「コンピューターを持ち運べる道具にする」ことでした。
GRiD Compassは一般市場ではなく、NASAのスペースシャトル計画(宇宙での使用を想定した耐久性と操作性)、アメリカ軍(フィールドでの使用を前提とした携帯性)といった特殊用途に採用されました。しかし「折り畳み式スクリーン+キーボードのクラムシェル形態」という設計は、その後すべてのノートパソコンが踏襲する基本形となりました。
「コンピューターを持って歩く」という行動パターンそのものを、モグリッジのデザインが可能にしたという意味で、GRiD Compassはインダストリアルデザインが技術の形を決めた記念碑的な作品です。
インタラクションデザインの命名(1984年頃)
1980年代前半、モグリッジはデザイン実践の中で「ソフトウェアとユーザーの間に何が起きるか」という問いに向き合い始めていました。当時、この領域には適切な言葉がありませんでした。「ソフトウェアデザイン」でも「グラフィックデザイン」でもない、インタフェースと人間の行動の交差点を扱う専門分野です。
モグリッジはビル・ベルプラッシュ(Bill Verplank)とともに、この領域を「インタラクションデザイン(Interaction Design)」と命名しました。
この命名は単なる言葉の整理ではありません。「デジタル製品を設計するとき、見た目の前に『どう使われるか』を設計しなければならない」という設計哲学の宣言でした。インタラクションデザインという名前が与えられたことで、この専門性が職能として確立され、後にHCI(Human-Computer Interaction)研究や現代のUXデザインへとつながっていきます。
IDEO共同創設(1991年)
1991年、モグリッジはデイヴィッド・ケリーのデザイン事務所David Kelley Design、マイク・ナットールのMatrix Product Designと統合し、IDEOを共同創設しました。
IDEOは産業デザインと人間中心設計を統合したコンサルティングファームとして、急速に影響力を持ちます。モグリッジはIDEOのロンドンオフィスを率い、ヨーロッパでのデザイン思考の普及に貢献しました。
IDEOのデザインプロセスの中に、モグリッジが持ち込んだ「インタラクション」の視点は不可分です。製品の形だけでなく、「製品を使う体験の流れ」「ユーザーとのインタラクションのシーケンス」を設計の対象とする姿勢が、IDEOの人間中心設計の核心に組み込まれています。
著書『Designing Interactions』(2007年)
モグリッジが残した最大の知的遺産のひとつが、2007年にMIT Pressから出版された『Designing Interactions』です。
この本の特徴は、インタラクションデザインの歴史を40名以上のデザイナー・エンジニア・研究者へのインタビューで記録したことです。ダグラス・エンゲルバート(コンピューターマウスの発明者)、アラン・ケイ(パーソナルコンピューター概念の先駆者)、ビル・ベルプラッシュ、ポール・フィッツ(Fitts’s Lawの提唱者)など、デジタルインタラクションの歴史を作った人物たちの肉声が収録されています。
この本が「デザイン思考の実践者への示唆」を持つのは、インタラクションデザインの発展が「技術の歴史」ではなく「人間の視点でデジタルを設計する試みの歴史」として記録されているからです。「ユーザーを観察し、ユーザーが自然に使えるものを設計する」という思想が、どのように先人たちによって形成されたかが、具体的な語りで分かります。
Cooper Hewitt館長(2010–2012年)
2010年、モグリッジはスミソニアン協会が運営するCooper Hewitt, Smithsonian Design Museumの館長に就任しました。
デザイナーがデザインミュージアムを率いるという人事は、パブリックなデザイン教育への強いコミットメントを示します。モグリッジは館長在任中、デザインを「専門家のもの」ではなく「社会全体で議論される文化」として位置づける姿勢を貫きました。
2012年9月8日、モグリッジは69歳でサンフランシスコのホスピスで癌のために亡くなりました。同年、Cooper-Hewitt国立デザイン賞生涯功績賞を受賞しています(2009年受賞、2012年が在任最終年)。
デザイン思考実践者へのモグリッジの遺産
モグリッジの仕事から、デザイン思考の実践者が受け取れる最も重要な示唆は3つあります。
1. 言葉を作ることの力 「インタラクションデザイン」という言葉がなければ、この専門性が職能として確立することはなかったかもしれません。自分たちが取り組む問いに名前を与えることは、その問いを社会的に共有可能にする行為です。
2. ハードウェアとソフトウェアを統合して設計する視点 GRiD Compassが示したのは、「ハードウェアの形」と「使い方(インタラクション)」は分けて設計できないということです。デザイン思考の実践においても、「体験」は複数の接点の統合として生まれます。
3. 実践の記録が次世代を作る 『Designing Interactions』は、先人たちの語りを記録することで、インタラクションデザインの知的基盤を作りました。ワークショップの場での学びを記録し、次の実践者に渡すことの価値を、モグリッジは著作を通じて示しています。
参考文献
- Bill Moggridge, Designing Interactions, MIT Press, 2007
- Paola Antonelli, “Bill Moggridge, 1943-2012”, MoMA Design Blog, moma.org, 2012
- Cooper Hewitt, “Bill Moggridge: Director 2010-2012”, cooperhewitt.org
- IDEO, “Bill Moggridge: Founder”, ideo.com
- Smithsonian Institution, “Cooper-Hewitt Mourns the Loss of Director Bill Moggridge”, si.edu, 2012