エリック・フォン・ヒッペル(Eric von Hippel、1941年生まれ)は、「イノベーションは誰が起こすか」という問いに対して、長年の通説を覆した経営学者だ。MITスローン・スクール・オブ・マネジメントのT. Wilson Professorとして、ユーザーイノベーション理論を体系化し、Lead User Method(リードユーザー法)という実践的な手法を開発した。
通説の転覆——「ユーザーが革新する」
20世紀のイノベーション研究の主流は、企業(生産者)がイノベーションの担い手であるという前提に立っていた。フォン・ヒッペルが1988年の The Sources of Innovation(Oxford University Press)で提示したのは、この前提を覆す実証だった。科学機器・半導体製造装置・スポーツ用品など複数の産業を調査した結果、重要なイノベーションの多くは生産者ではなくユーザーによって最初に開発・試作されていた。
フォン・ヒッペルの定義するユーザーイノベーターとは、革新から得る利益が「使用利益(use benefit)」であって「販売利益(sale benefit)」ではない存在だ。「自分が使えるものを作る」という動機が、「売れるものを作る」という動機とは根本的に異なる成果を生む——この差異の解明がフォン・ヒッペルの研究の核心だった。
Lead User Method——最前線のユーザーを探す
理論的な発見を実践に接続したのが、Lead User Method(リードユーザー法)だ。
「リードユーザー(Lead User)」とは、2つの特性を持つユーザーだ。第一に、一般市場よりも数ヶ月から数年早い段階でニーズに直面しているユーザー。第二に、そのニーズを自ら解決することで大きな便益を得られるユーザー。市場の「最前線」にいて、自力で問題を解く強いインセンティブを持つ人々だ。
3Mの医療用マスク改良開発では、研究チームが既存ユーザーではなく感染症の最前線にいる医師や工業用マスク分野のユーザーにアクセスした。このリードユーザーとの共同開発から生まれたコンセプトは、通常の市場調査から生まれたものより高い評価を得た。Lego Mindstormsでは、発売後に熱心なユーザーたちが非公式にシステムを改造・拡張し始め、その動きがLegoの公式なコミュニティ戦略へと影響を与えた——企業の想定を超えてユーザーが製品を進化させた典型例だ。
『Democratizing Innovation』——イノベーションの民主化
2005年にMIT Pressから刊行された Democratizing Innovation(邦題のない英語原著は無償公開されている)は、フォン・ヒッペルの研究を新たなフェーズへと押し進めた著作だ。
本書の中心命題は、デジタルツールとインターネットの普及によって、ユーザーがイノベーターとして活動するコストが劇的に低下したという観察だ。CADソフトウェア・プログラミング言語・オープンソースのインフラにより、ユーザーは生産者の助けを借りなくても自分のニーズに合わせた解決策を開発できるようになった。Linux やApacheが企業のR&Dではなく分散した個人の協働によって開発・維持されているという事実は、「イノベーションは組織内で管理されなければならない」という前提を正面から否定するものだ。本書はMIT Pressのウェブサイトで無償公開されており、これ自体が「民主化」という主張の実践だった。
『Free Innovation』——贈与としてのイノベーション
2017年のMIT Press刊行 Free Innovation は、探求をさらに深めた著作だ。「Free Innovation」とは知的財産権で保護されず無償で共有されるイノベーションを指す。消費者調査の結果、多くの国で一定割合の消費者が製品・改良品を開発し成果を無償で共有していることが示された。この「自由なイノベーター」を動かすのは利益動機ではなく使用利益と作ること自体の喜びであり、フォン・ヒッペルはこのセクターを企業の商業イノベーションと補完的な関係として位置づけた。
デザイン思考への接続
フォン・ヒッペルの問いは、デザイン思考の実践者にとって根本的な意味を持つ。
「ユーザーは問題の発見者であるだけでなく、解決策の発明者でもある」——この主張は共感フェーズの目的を再定義する。ユーザーを「理解すべき対象」と見るのではなく、「潜在的なイノベーターとして協働すべき存在」として捉える視点だ。
Lead User Methodはアイデエーションフェーズの情報源の質を変える。一般ユーザーへの調査が「現在のニーズの平均値」を返すのに対し、リードユーザーへのアクセスは「数年後の市場ニーズの先行指標」を提供する。誰と対話するかが、何を問うかと同じくらい重要だ。
ジェーン・フルトン・スリが「Thoughtless Acts」として記述した無意識の行動と、フォン・ヒッペルが実証したユーザーの能動的な問題解決は、同じ現象の異なる側面だ。ユーザーはデザイナーの意図通りに使わないのではなく、自分のニーズに合わせて積極的に適応している——その改造・工夫・回避行動こそが最良のインサイト源になる。
参考文献
- Eric von Hippel, The Sources of Innovation, Oxford University Press, 1988
- Eric von Hippel, Democratizing Innovation, MIT Press, 2005(MIT Press にて無償公開)
- Eric von Hippel, Free Innovation, MIT Press, 2017
- Eric von Hippel, “Lead Users: A Source of Novel Product Concepts”, Management Science, 1986
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