デザイン思考を語る際、IDEO の成功事例や Stanford d.school の5フェーズが語られることは多い。しかしなぜデザイン思考が「複雑な問題」に有効なのか——その理論的な根拠をほとんどの実践者は説明できない。
その根拠を作ったのが、リチャード・ブキャナン(Richard Buchanan)である。
ブキャナンが1992年に発表した論文「Wicked Problems in Design Thinking」(Design Issues, Vol.8, No.2)は、デザインという行為を哲学的・方法論的に再定義した転換点だ。この論文を読まずにデザイン思考の「なぜ」を語ることは、地図なしで山に入るようなものである。
Horst Rittel から受け継いだもの
ブキャナンの思想を理解するには、まず Horst Rittel(ホルスト・リッテル)に遡る必要がある。
リッテルはカリフォルニア大学バークレー校のデザイン理論家であり、1973年に Melvin M. Webber とともに発表したペーパー “Dilemmas in a General Theory of Planning”(Policy Sciences, 4(2))の中で「Wicked Problems(悪問題)」の概念を提唱した。
リッテルが定義した Wicked Problems の特徴は以下のように要約できる。
- 問題の定義自体が問題である。 何が問題かを明確にしようとするたびに、別の問題が見えてくる。問題の定義と解決策の探索が分離できない
- 試みるたびに変わる。 解決策を試した瞬間に、問題の状況が変わる。一度きりの実験であり、同じ実験を繰り返せない
- 正解も間違いもない。 「よい・悪い」ではなく「より良い・より悪い」でしか評価できない
- 一意な答えがない。 無数の解決策の候補があり、原理的にすべてを列挙できない
リッテルが念頭に置いていたのは都市計画や社会政策の問題だった。「貧困をなくすにはどうすればよいか」「都市交通渋滞を解消するにはどうするか」——これらは解けない問題ではなく、「解いた」と言える瞬間が存在しない問題だ。
ブキャナンはこの概念を、デザインという実践の核心に据えた。
1992年論文の核心——「デザインは Wicked Problems を扱う知」
ブキャナンの論文「Wicked Problems in Design Thinking」が提示した最も重要な命題はこうだ。
デザインは、不確定性(indeterminacy)という条件の下で機能する。デザイナーは問題が完全に定義されるのを待ってから解決策を考えるのではない。問題を定義する行為そのものが、デザインの作業に含まれている。
— Richard Buchanan, “Wicked Problems in Design Thinking”, Design Issues, Vol.8, No.2, Spring 1992, p.15
この命題が重要な理由を具体的に考えてほしい。
エンジニアリングや医学には「問題が定義されてから解決する」という構造がある。骨折の治療法は、骨折という問題が確定してから選択される。対して、「組織の意思決定プロセスをどう改善するか」という問いは、何が問題かを確定した瞬間から別の問題が立ち上がる。
ブキャナンはリッテルの概念を受け取りながら、それを批判的に発展させた。リッテルは Wicked Problems を「解けない問題」として半ば悲観的に記述したが、ブキャナンは「だからこそデザイン的な思考が必要だ」と反転させた。
論文の中でブキャナンは次のように書いている。
デザイン思考は、諸問題の部分的あるいは暫定的な解決策を通じて、人間の生活の状況を変革する新しい可能性を作り出すために使われる。
— ibid., p.16
「暫定的な解決策」という表現が鍵だ。 デザイン思考は最終的な正解を出すための手法ではなく、より良い暫定解を積み重ねることで状況を前進させる方法論である。この認識がなければ、プロトタイピングを「仮のもの」として素早く作る価値を、チームメンバーに説明できない。
「デザインの4つの領域」——記号・物・行動・思考
論文の中でブキャナンが提示したもう一つの重要な貢献が「デザインの4つの領域(Four Domains of Design)」だ。
| 領域 | 対象 | 具体例 |
|---|---|---|
| 記号とイメージ(Symbolic and Visual Communication) | グラフィックデザイン・タイポグラフィ | ロゴ、書籍デザイン、UI のビジュアル |
| 物(Material Objects) | プロダクトデザイン・工業デザイン | 家具、機器、日用品 |
| 行動(Activities and Organized Services) | サービスデザイン・インタラクションデザイン | サービス設計、体験設計 |
| 思考(Complex Systems or Environments) | 組織・システム・環境のデザイン | 組織設計、政策デザイン |
ブキャナンはこの4領域を「スペクタクル(場)」と呼び、それぞれの領域でデザインが扱う問題の性質が異なることを示した。しかし同時に、どの領域の問題も Wicked Problems としての性質を持つという点で共通していることを論じた。
この分類が現代のデザイン思考に与えた影響は大きい。「デザインはものを作ることだ」という固定観念を崩し、行動や思考のシステムにまでデザインの視野を広げる根拠になった。Stanford d.school が「社会課題にデザイン思考を適用する」という教育方針を取る理論的な支えの一つが、この分類にある。
カーネギーメロン大学での実践——理論を教育に変換する
ブキャナンはピッツバーグのカーネギーメロン大学(CMU)デザインスクールで長年教鞭をとり、学部長を務めた。CMU のデザインプログラムは、IDEO や Stanford d.school のような「実践の場」とは異なる「理論と実践の橋渡しの場」として機能した。
ブキャナンの授業では、デザインの歴史・哲学・修辞学が扱われた。修辞学(Rhetoric)をデザイン思考の方法論として捉える視点——「デザインは説得の行為である」という命題——は、ブキャナンがもたらした独自の貢献だ。
プロダクトや環境は、ユーザーに特定の行動・態度・価値観を「説得」する。使いやすいデザインは「あなたはここで操作できる」と説得し、アクセシブルなデザインは「あなたはここに属している」と説得する。この視点は、デザイン思考における「ユーザーとの対話」をより豊かに捉える枠組みを提供した。
Rittel → Buchanan → 現代実務の系譜
1973年のリッテルから1992年のブキャナンを経て、現代のデザイン思考実践に至る系譜を整理する。
Rittel(1973): Wicked Problems を問題の類型として発見・記述する。都市計画・政策のコンテキスト。「解けない問題がある」という告発。
Buchanan(1992): Wicked Problems をデザイン思考の作業領域として再解釈する。「解けない問題こそデザインが扱う対象だ」という転換。デザインを問題解決ではなく「問題の探索と暫定解の連鎖」として再定義。
IDEO / d.school(1990年代〜): ブキャナンの哲学を実践プロセスに変換する。「共感→定義→創造→プロトタイプ→テスト」の5フェーズは、「問題は反復的に発見・再定義される」というブキャナンの命題の実装形だ。特に 「定義(Define)フェーズ」で HMW(How Might We)を立て直す作業は、Wicked Problems 概念の直接的な実践訳だと理解できる。
現代(2010年代〜): デザイン思考が行政・医療・教育などの複雑系課題に適用される。ブキャナンが「思考のデザイン(第4領域)」と呼んだ領域が、まさに適用対象になる。
なぜブキャナンを知らずにデザイン思考を語れないのか
ブキャナンの論文を読んでいないデザイン思考の実践者でも、その影響下で仕事をしている。それがブキャナンの思想の浸透の証拠でもある。
しかし、ブキャナンへの無理解が実践を浅くする場面はある。
ワークショップでよく起こるのは、プロトタイプが一度うまくいかなかっただけで「アプローチを変えよう」と結論を急ぐチームだ。問題の定義が変わり続けることを許容しない、つまり Wicked Problems の本質を受け入れていない状態だ。ブキャナンが言う「暫定的な解決策の連鎖」を実践するためには、「問題は1回の定義で固まらない」という認識をチーム全体で共有する必要がある。
あるいは、「デザイン思考で解決できない問題がある」という批判に対して、実践者が適切に応答できないケースも多い。ブキャナンはむしろ「デザインが扱う問題は本質的に解決不可能だ」と言っている——その上でデザイン思考が価値を持つのは、「解く」ためではなく「より良い暫定解を積み重ねる」ためだというロジックが、批判への正確な返答になる。
デザイン思考の5フェーズは「プロセス」だ。ブキャナンはそのプロセスが何を前提にし、何を目指しているかの「哲学」を提供した。プロセスだけを知っている実践者と、哲学まで知っている実践者では、複雑な局面での判断の質が変わる。
こんな人にブキャナンを読んでほしい
デザイン思考を「手法のツールボックス」として学んでいる人へ。 ペルソナの作り方やHMWの書き方は手が届く場所に情報がある。しかし「なぜその手法が機能するのか」「なぜプロトタイプを反復することに意味があるのか」という問いに答えられない実践者は多い。ブキャナンの論文は、その「なぜ」の層を埋める。
組織内でデザイン思考の価値を説明する立場にある人へ。 「デザイン思考で何が解決できるのか」という問いに対して、「複雑な問題に構造的にアプローチできる」では答えになっていない。Wicked Problems の概念を借りることで、「デザイン思考が有効な問題の種類」と「有効でない問題の種類」を正確に説明できるようになる。
デザイン思考への批判に晒されている人へ。 「デザイン思考はただのポストイット遊び」「ワークショップで終わって実装されない」という批判は、実践の場では珍しくない。ブキャナンが与えてくれるのは、批判への反論ではなく、批判の中に正当な指摘を見分ける力だ。「暫定解の連鎖」という概念を持っていれば、プロトタイプが否定されることを「失敗」ではなく「情報の獲得」として説明できる。
参考文献
- Richard Buchanan, “Wicked Problems in Design Thinking”, Design Issues, Vol.8, No.2, Spring 1992, pp.5–21
- Horst W.J. Rittel & Melvin M. Webber, “Dilemmas in a General Theory of Planning”, Policy Sciences, 4(2), 1973, pp.155–169
- Richard Buchanan, “Declaration by Design: Rhetoric, Argument, and Demonstration in Design Practice”, Design Issues, Vol.2, No.1, 1985
- Richard Buchanan & Victor Margolin (eds.), Discovering Design: Explorations in Design Studies, University of Chicago Press, 1995
- Victor Margolin & Richard Buchanan (eds.), The Idea of Design, MIT Press, 1995
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