ロジャー・マーティン(Roger Martin、1956年生まれ)は、カナダのトロント大学ロットマン経営大学院の元学長(2013年まで15年間在任)であり、「統合的思考(Integrative Thinking)」の概念を通じてデザイン思考とビジネス戦略を接続した経営思想家です。Thinkers50にて「世界で最も影響力のある経営思想家」トップ10に複数回選出されています。
経歴
ハーバード大学でビジネスを学び、同大学ビジネススクールでMBAを取得。モニター・グループ(現・デロイト・コンサルティング)で経営コンサルタントとして活躍後、1998年にロットマン経営大学院の学長に就任します。就任直後からデザイン思考をMBAカリキュラムに取り込む試みを開始し、経営大学院とデザイン教育の融合を積極的に推進しました。
2013年に学長職を退いた後も、プロアクター・グループを通じてグローバル企業の戦略アドバイザーとして活動を続けています。
統合的思考とは何か
マーティンが提唱する「統合的思考(Integrative Thinking)」は、相反する2つのモデルの緊張関係を創造的に解消し、どちらのモデルよりも優れた解決策を生み出す能力のことです。
従来の意思決定では「AかBか」という二択に収束しがちです。しかしマーティンは、優れた経営者は「AとBの両方の良い部分を取り込んだC」を生み出すことで問題を解決していると分析しました。この「第三の答えを作る」思考プロセスこそが、デザイン思考の核心と重なっています。
統合的思考の4つのプロセスは以下の通りです。
- 顕著性(Salience) — 何を関連ある要因として認識するか
- 因果関係(Causality) — 要因同士のつながりをどう見るか
- アーキテクチャ(Architecture) — 問題をどう構造化するか
- 解決策(Resolution) — 相反する要求からどう解決策を作るか
著書『ザ・デザイン・オブ・ビジネス』
2009年に出版された The Design of Business: Why Design Thinking Is the Next Competitive Advantage は、デザイン思考を競争優位の源泉として経営戦略と接続した重要な著作です。
マーティンはこの書籍で「ナレッジファネル」の概念を提示しました。ビジネスにおける知識の進化は「謎(Mystery)→ヒューリスティクス(Heuristic)→アルゴリズム(Algorithm)」という段階をたどります。多くの企業はアルゴリズムの最適化(効率化)に集中するあまり、謎の探索(イノベーション)をやめてしまうというジレンマを指摘しました。
デザイン思考が担う役割は、謎の段階で「分からないことを探索し、新しいヒューリスティクスを作ること」です。効率化と探索の間の緊張を管理することが、現代の経営者の核心的な仕事だとマーティンは論じています。
P&G との協働とデザイン経営の実践
マーティンはP&Gのボブ・マクドナルドCEO(在任2009〜2012年)のアドバイザーとして、P&G全体にデザイン思考を浸透させるプロジェクトに関与しました。P&GがIDEOと協働し、消費者の生活観察から製品開発を行う「リビングイットプログラム」の思想的バックボーンには、マーティンの統合的思考の影響があります。
また、リーバイ・ストラウス、ノキア、RBC(カナダロイヤル銀行)など多数のグローバル企業の戦略立案にも参加し、デザイン思考を「理論」ではなく「経営現場のツール」として機能させる実績を積み上げてきました。
デザイン思考に対する批判的視点
マーティンはデザイン思考の熱烈な支持者である一方、その誤用にも警鐘を鳴らしています。2019年のHBR論文「The Problem with Design Thinking」では、「デザイン思考が一連のプロセスに矮小化され、思考そのものが軽視されている」という問題提起を行いました。
5 Whysのような手法がテンプレートとして使われるとき、手法を使うことが目的になり、問題の本質を問うことが疎かになるというパターンがあると指摘しています。この批判は、ドン・ノーマンの「デザイン思考はスモールデザインに偏りすぎている」という問題意識と共鳴しています。
ロットマン経営大学院の遺産
マーティンが15年間学長を務めたロットマン経営大学院は、今日でも世界でデザイン思考をMBA教育に最も深く組み込んだビジネススクールのひとつです。デザイン思考のワークショップを必修科目として設置し、アート・デザイン・ビジネスの融合を教育方針の中核に据えています。
参考文献
- Roger Martin, The Design of Business: Why Design Thinking Is the Next Competitive Advantage, Harvard Business Press, 2009
- Roger Martin, The Opposable Mind: Winning Through Integrative Thinking, Harvard Business Press, 2007
- Roger Martin, “The Problem with Design Thinking”, Harvard Business Review, March 2019
- Thinkers50, “Roger Martin”, thinkers50.com