金融サービスにおけるデザイン思考——顧客体験革新の実装ロードマップ
金融業界でデザイン思考を導入する際の障壁(規制・リスク回避文化・意思決定チェーン)を正面から扱い、ING Bank・BBVA・JP Morganの3事例から成功条件の共通点を抽出する実践ガイド。
金融業界でデザイン思考を導入する際の障壁(規制・リスク回避文化・意思決定チェーン)を正面から扱い、ING Bank・BBVA・JP Morganの3事例から成功条件の共通点を抽出する実践ガイド。
金融機関でデザイン思考を導入しようとすると、他の業界では経験しない壁にぶつかる。
規制の壁、リスク回避文化、複数の承認フェーズをまたぐ意思決定チェーン。「ユーザーのニーズを起点に素早く試す」というデザイン思考の基本動作が、金融機関の構造と正面から衝突する。
しかしそれでも、デザイン思考を金融サービスに根付かせることに成功した組織は存在する。ING Bank、BBVA、JP Morgan の3事例から、成功の共通条件を抽出する。
デザイン思考の実践でワークショップが楽しく終わっても、「さてプロトタイプを作って試してみよう」という段階で動きが止まる——金融機関のプロジェクトでよく起こる光景だ。その原因を構造的に整理する。
金融商品のプロトタイプは、一般的なデジタルサービスとは異なる制約下にある。金融庁への届出が必要な新商品は、プロトタイプの段階では「仮の商品」として扱えないケースがある。AML(マネーロンダリング防止)対応、個人情報保護法、金融商品取引法の適用範囲が、ユーザーテストの設計に影響する。
ここで多くの組織が犯す間違いは、「規制があるからプロトタイプテストができない」と判断して、テストフェーズ全体を諦めることだ。規制は「何をどこまでテストできるか」の条件であり、テストそのものの禁止ではない。 法務・コンプライアンス部門を最初から巻き込み、「この形式でのテストは可能か」を確認するプロセスを設計することが、この障壁の実際の対処法になる。
デザイン思考は「早く失敗して学ぶ(Fail Fast)」を前提とする。しかし金融機関では、「失敗」が顧客の財産や信頼に直結するという強い信念が文化として根付いている。
この文化は誤りではない。顧客の預金が動くシステムに「ラフなプロトタイプ」を投入することは、確かにリスクを伴う。問題は「失敗が許されない」という認識が、学習の機会そのものを排除してしまうことだ。
実際には、デザイン思考が最もリスク回避的な手法でもある。完璧なシステムを作り込んでから市場に出すよりも、低忠実度のプロトタイプで顧客のニーズを検証してから投資する方が、失敗のコストははるかに低い。
この認識ギャップを埋めるために、「プロトタイプ」を「実験」ではなく「調査ツール」として定義し直すフレーミングが有効なことがある。「試している」ではなく「調べている」という語感が、リスク回避文化の中では通りやすい。
金融機関の新しい顧客サービスには、プロダクト部門・IT部門・法務・コンプライアンス・リスク管理・経営企画が関与する。各部門がそれぞれの基準で承認判断をする。
デザイン思考のプロセスは本来、少人数の多機能チームが素早く反復する構造を想定している。承認者が6部門に分散した状態では、1サイクルの検証に数週間を要することも珍しくない。
対処法として機能するのは、主要ステークホルダーをプロジェクトの初期段階から「共同設計者」として巻き込むことだ。承認者を「チェックする人」ではなく「一緒に作る人」のポジションに置くことで、後段での手戻りを減らす。IBMが「Enterprise Design Thinking」で実践した「スポンサーユーザー(Sponsor Users)」の概念——内部の権限者をデザインプロセスの参加者として組み込む——は、金融機関の構造に適合しやすい設計だ。
ING Bank(ING グループ、オランダを本拠地とするグローバル金融機関)は、2015年から組織全体のアジャイル変革を実施した。その中でデザイン思考は、顧客体験設計の方法論として組み込まれた。
ING は従来の機能別部門制を廃止し、「スクワッド(Squad)」と呼ばれる小規模多機能チームに組織を再編した。各スクワッドは特定の顧客ジャーニーを担当し、プロダクトマネージャー・デザイナー・エンジニア・コンプライアンス担当者が同一チームとして機能する。
この構造がデザイン思考の実践において意味するのは、コンプライアンス担当者がテストサイクルの外側にいないことだ。法務的な確認がテストサイクルを遮断するのではなく、スクワッド内で並行して進む。意思決定のサイクルタイムが短縮された。
ING の取り組みの詳細は、McKinsey・London Business School・Harvard Business School が発表したケーススタディや ING の公式資料に記録されているが、注目すべきは「デザイン思考の導入」ではなく「組織構造そのものの再設計」が先行したことだ。手法を先に導入して組織が変わるのを待つよりも、構造を変えることで手法が機能する環境を先に作ったという順序の違いが、ING の成功の核心にある。
BBVA(Banco Bilbao Vizcaya Argentaria、スペインを本拠地とするグローバル銀行)は、2007年頃からデザイン思考を顧客体験設計の方法論として組織的に導入し始めた。
BBVA の特徴は、デザイン組織を経営の中枢に近い位置に置いたことだ。BBVA はグローバル・デザイン責任者(Global Head of Design)ポジションを設け、カスタマーエクスペリエンス担当チームを戦略部門に組み込んだ。これは日本の金融機関に多い「デジタル推進部が外部ベンダーと連携してデザインする」構造とは根本的に異なる。
顧客ジャーニーマップを全行員が共通言語として使うという取り組みも実施した。支店スタッフ・コールセンター担当者・デジタルチームが、同じ顧客の「旅」の地図を参照することで、タッチポイントをまたいだ体験の一貫性が設計可能になる。
BBVA のケースから学べる原則は、顧客体験のデザインは「特定の部署の仕事」ではなく「組織全体の共通言語の問題」だということだ。デザイン思考の手法を一部のプロジェクトチームだけが持っていても、顧客が体験するサービスの一貫性は実現しない。
JP Morgan Chase は、2013年前後からデザイン思考を活用したユーザーリサーチとプロダクト開発を、リテールバンキング部門を中心に拡大した。
特に注目されるのは、インハウスのデザインスタジオを設立してデザイン人材を内部化した判断だ。外部のデザインエージェンシーへの依存を減らし、顧客データへの直接アクセスと開発チームとの連携を密にすることで、設計→テスト→実装のサイクルを短縮した。
JP Morgan の取り組みの中で「共感フェーズ」が発揮された例として、ATM のインターフェース再設計プロジェクトがある。高齢者ユーザーや視覚障害のあるユーザーを含む多様なターゲットへの丁寧なフィールドリサーチが、従来の「社内で想定したユーザー像」から大きく異なるインサイトをもたらした。詳細は JP Morgan Chase の公式ニュースルームや UX 関連カンファレンスでの発表に記録されている。
ING・BBVA・JP Morgan の3事例を並べると、業界・規模・アプローチが異なっても、成功に至るプロジェクトには共通した条件がある。
条件1:組織構造がデザイン思考の実践を物理的に可能にする設計になっている。
ING のスクワッド構造、BBVA のデザイン組織の戦略部門への組み込み、JP Morgan のインハウスデザイン組織——三者とも「デザイン思考を実践できる環境」を組織構造として先に設計している。ワークショップだけを導入しても変わらない。
条件2:規制・法務・コンプライアンスの担当者がデザインプロセスの「外側」にいない。
金融機関での失敗プロジェクトの典型は、プロトタイプを作った後に法務・コンプライアンス部門に確認を依頼して「この形では提供できない」と差し戻されるパターンだ。成功事例では、これらの担当者が初期段階から設計チームの一員である。
条件3:デザイン思考の「結果」ではなく「プロセス」を組織に根付かせている。
「デザイン思考でいいプロダクトができた」という成果よりも、「デザイン思考的な問いの立て方が日常になった」という状態を目指している。これは一度のプロジェクトでは達成できない。継続的な教育・ファシリテーション人材の育成・組織内の実践コミュニティの形成が必要になる。
すでに金融機関でデザイン思考導入を検討している場合、最初のステップとして機能しやすいのはサービスデザインブループリントの作成だ。
既存の顧客接点(口座開設フロー、問い合わせ対応、申込手続きなど)を1つ選び、フロントステージ(顧客が見える場所)とバックステージ(顧客から見えない社内プロセス)を可視化する。顧客の感情曲線を同時に描くことで、「どの瞬間に顧客の信頼が下がるか」が視覚化できる。
この作業を関係部門(フロント・IT・法務・コンプライアンス)の担当者が同席してワークショップ形式で行うと、「部門間で見えている顧客体験が違う」という事実が最初の重要な発見になる。そこから「では、どうするか」の問いが始まる。
サービスデザインブループリントの具体的な手順は別稿で詳述しているが、金融機関での適用においては「規制上の制約を先にブループリントの中に記入する」というステップを追加すると、現実的な改善余地を早く特定できる。
デザイン思考は「規制のない業界のもの」ではない。制約が多い業界だからこそ、「何が本当の障壁か」を正確に見極める共感とインサイト抽出の力が要る。手を動かすことから始めてほしい。
国内金融機関での具体的なユーザーリサーチ手法と「信頼の壁」の乗り越え方については、デザイン思考で金融サービス革新——顧客の「恥」を起点にした設計の現場で詳述している。