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ヘルスケア領域のデザイン思考 — 患者体験を再設計する

病院の待合室、処方箋の説明、リハビリプログラム。ヘルスケア領域でデザイン思考がどのように患者体験を変革しているか、具体的な事例と実践手法を解説する。

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病院の待合室で2時間待ち、ようやく呼ばれた診察室で医師に話しかけてもらえるのはわずか7分。処方箋の説明は専門用語だらけで、家に帰ったときには何をどう飲めばいいのか分からなくなっている。退院の際に渡された書類の束は、翌朝には読む気力もなくなっている。 ヘルスケアは技術的には世界最先端でありながら、体験としては著しく遅れている領域のひとつだ。

この構造的な問題に、デザイン思考が切り込んでいる。200回以上のワークショップで繰り返し観察されるのは、医療現場のスタッフ自身が「患者の体験」を可視化したとたん、「なぜこうなっているのか」という問いが止まらなくなるパターンだ。技術の問題ではなく、 設計の問題である ことが明らかになる瞬間がある。

なぜヘルスケアにデザイン思考が必要なのか

「治す」と「体験」は別問題

医療の本来の目的は疾患を治療することだ。しかし、患者の満足度や治療アドヒアランス(処方どおりに薬を飲み続けること)、再発防止への意識は、治療の技術的水準だけでは決まらない。 「どのように診てもらったか」という体験の質が、治療の成果に直結する ことが複数の研究で示されている。

Harvard Business Reviewの2017年の報告によれば、患者体験が優れた病院では入院患者の合併症発生率が低く、スタッフの離職率も低い傾向がある。患者体験は「感情的なやさしさ」ではなく、医療アウトカムに影響する実務上の変数なのだ。

システムが患者を中心に設計されていない

ほとんどの病院の動線、書式、情報提供のタイミングは、医療提供者側の業務効率を中心に設計されてきた。 患者が「次に何が起きるか」を把握できる構造になっていない。 何時間待つのか、どの検査が何のためにあるのか、退院後に何を気をつければいいのか——これらの情報は患者にとって切実だが、標準的な病院フローの中では後回しにされやすい。

デザイン思考の共感フェーズが強力なのは、こうした「見えていた」問題を、実際に患者の立場から経験することで「本当に見える」ものに変えるからだ。患者役の医師が診察室の外で2時間待つという体験ひとつで、問題の優先順位が変わることがある。

世界の先行事例

Mayo Clinic — 診察室の設計を根本から問い直す

アメリカ・ミネソタ州にあるMayo Clinicは、2000年代初頭にデザインコンサルティングファームIDEOと協働し、デザイン思考によるヘルスケア改革の先駆けとなった。2007年にはCenter for Innovation(CFI)を設立し、フルタイムのデザインリサーチャーを含む専門チームが院内の体験を継続的に改善する体制を整えた。

その代表的な成果が 「Jack and Jill Room」 だ。従来の診察室は医療機器が大半のスペースを占め、身体診察を中心に設計されていた。しかし実際のデータを見ると、身体診察にかかる時間は診察時間全体の10〜15%に過ぎない。残りの85〜90%は会話だ。

この事実から出発し、診察室の両サイドに会話のためのスペースを設けた新しいレイアウトを設計した。患者・家族・医師が同じモニターを見ながら対話できる構造になり、 より多くの患者を受け入れながら、患者満足度を高める ことに成功した。「器具を置く場所」から「会話が生まれる場所」へ——設計の前提そのものを変えたプロジェクトだ。

Kaiser Permanente — 看護師の申し送りを患者中心に再設計する

全米最大規模のヘルスケア組織のひとつ、Kaiser Permanenteでもデザイン思考が大きな成果を上げている。問題の発端は、シフト交代時の看護師同士の申し送り(ハンドオフ)だった。

申し送りに45分以上かかり、看護師ごとにメモの取り方が異なるため重要情報が抜け落ちることがあった。ナースステーションで行われるこの引き継ぎの間、患者は放置される。 医療ミスの温床になりやすい構造的な問題 だった。

デザイン思考のアプローチで現場を観察・インタビューした結果、生まれた解決策は「患者のベッドサイドで引き継ぎを行う」という発想の転換だった。同時に、情報を統一フォーマットで共有するソフトウェアが開発された。患者本人も申し送りの場にいることで、情報の正確さを患者自身が確認できるようになった。

この変革の結果、Kaiser Permanenteは 約1年間で医療ミスによるコストを96万ドル削減 することに成功した。「患者を診察の対象」から「引き継ぎプロセスの参加者」へと再定義したことが、根本的な改善を生んだ。

IDEO × Nemours Children’s Hospital — 子どもの病院体験を全面再設計する

IDEOはフロリダ州オーランドのNemours Children’s Hospitalの設計にも深く関わった。4億ドル規模のこのプロジェクトでは、子どもと家族を中心に据えた病院体験の全面的な再設計が行われた。

具体的なアウトプットは革新的だった。 子どもが病室の照明の色を自分でコントロールできる ようになり、入院中の自律感を高めた。フロアグリーターと呼ばれるコンシェルジュが来院した家族を出迎え、不安を軽減する。家族ラウンジにはキッチンが設置され、家族が食事を共にできる環境を提供した。

設計プロセスではFull-scale prototypeが活用された。ウェルカムステーション、待合ラウンジ、診察室の実物大模型を発泡スチロールで製作し、実際の医療スタッフと家族が使ってフィードバックを得る。 図面ではなく、身体で体験してから設計を確定する というプロセスが、数多くの問題を事前に発見した。

日本の事例 — PwC Japanのヘルスケアデザイン研究

国内でもデザイン思考のヘルスケアへの応用が進んでいる。PwC Japanのヘルスケアデザイン研究では、超高齢社会における患者体験の再設計が焦点となっている。単なる診療効率の改善ではなく、 高齢者が「療養」から「生活」を継続している実感を持てるような体験設計 が模索されている。

退院後の在宅療養期間の体験、リハビリへの内発的な動機づけ、家族との連携のあり方——これらは医療技術の問題ではなく、人間中心の設計の問題だ。

デザイン思考のヘルスケアへの適用手順

Phase 1:患者ジャーニーの可視化

まず患者が「病気を自覚する前」から「完全に日常生活に戻る後」までの全体的な体験をジャーニーマップで可視化する。医療機関が通常フォーカスする「院内の動線」だけでなく、自覚症状が出た時点での不安、受診を決断するまでの葛藤、退院後の孤独感まで含めることが重要だ。

医療スタッフが「患者ジャーニー全体」を初めて目にするとき、 一様に驚きの反応が起きる 。「入院が始まった」と病院が認識するタイミングより、患者の体験は数週間前に始まっている。

Phase 2:「ペインポイント」と「不安の峠」を特定する

ジャーニーマップ上で、患者の感情が最も落ち込む「不安の峠」を特定する。典型的な峠は以下の3点に集中する。

  1. 診断告知の瞬間 — 情報量が多く、感情的な混乱の中で意思決定を迫られる
  2. 退院直前 — 「一人でできるか」という不安が最高潮に達する
  3. 退院後1〜2週目 — サポートが突然なくなり、孤独感が増す

Phase 3:HMW問いで解決の方向を探る

特定した峠に対して、How Might Weの問いを立てる。「どうすれば退院直前の患者が、一人でも対処できる自信を持てるだろうか」「どうすれば診断告知後の患者が、重要な情報を落ち着いて整理できるだろうか」——こうした問いが、チームの創造的なアイデア発散を導く。

Phase 4:低忠実度プロトタイプで素早く検証する

ヘルスケア領域でのプロトタイプは、過度に完成度を上げる必要はない。Kaiser Permanenteのケースでも、最初は紙のフォームと会話の変更から始まった。 「やってみてから改善する」サイクルを短く回す ことが、現場の協力を得るうえでも重要だ。

退院後の患者サポートであれば、まずは電話1本から始める。待合室体験であれば、掲示板の文言を変えるところから試みる。小さな介入からフィードバックを得て、より大きな設計変更へとつなげていく。

ヘルスケア特有の難しさ

利害関係者の複雑さ

病院はステークホルダーが極めて多い。患者、家族、看護師、医師、病院管理者、保険会社、医療機器メーカー——それぞれの利益と優先順位が異なる。 全員を共感の対象にする 広い視野がなければ、ある問題を解決しながら別の問題を生み出すことになる。

規制と安全性の壁

医療においては、創造的なアイデアを試みる際にも厳格な安全基準と規制への適合が求められる。 プロトタイプの範囲を「非臨床的なサービス体験」に絞る ことが現実的な出発点だ。待合室の動線、情報提供の方法、退院後のフォローアップの設計は、医療行為を伴わない部分であり、比較的迅速に改善できる。

感情的な重さ

病気・死・苦痛に向き合う医療現場では、共感フェーズの調査が感情的に過酷になることがある。ワークショップ参加者が患者や家族の経験に深く共感するあまり、感情的に疲弊することも珍しくない。 適切なデブリーフィングの時間をセッション後に設ける ことが、継続的な取り組みを支える。

日本のヘルスケアで特に有効な領域

説明の設計

日本の医療現場では、インフォームド・コンセントの形式化が進む一方、患者が「本当に理解した」かどうかの確認が薄いことが多い。診断説明の場での情報の渡し方、書類のデザイン、患者が持ち帰る資料の構成——これらは高度な医学的判断を必要とせず、 デザイン思考で即座に改善できる領域 だ。

待機体験の設計

高齢者が多い日本の病院では、長時間待機が日常的だ。「待つ」という行為そのものをゼロにすることは難しいが、 「待っている間に何が分かり、何を準備できるか」という体験は設計できる 。待ち時間の見通しを示す、待機中に活用できる情報を提供する、といった介入が患者満足度を大きく変える。

在宅療養・リハビリの継続

退院後の在宅療養期間に医療的なサポートが薄くなりがちなのは、日本でも大きな課題だ。リハビリを自宅でも続けてもらうための動機設計、家族への情報提供の方法、地域コミュニティとの接続——これらは医療技術ではなく、 人間の行動設計の問題 として取り組める。

まとめ——「治す」ことを「体験」として設計する

Mayo Clinic、Kaiser Permanente、Nemours Children’s Hospitalの事例が示すのは、一貫したひとつのことだ。 医療の質と患者体験の質は、トレードオフではない。 人を中心に置いた設計は、同時に医療アウトカムを改善し、ミスを減らし、スタッフの働き方も良くする。

デザイン思考をヘルスケアに適用するとき、最初の問いは「何を改善するか」ではない。「誰の、どの瞬間の体験から始めるか」だ。待合室で2時間待っている患者の顔を実際に観察することから、すべての改善は始まる。

デザイン思考の全体像を理解したうえで、まずは自組織の患者ジャーニーマップを一枚描いてみることをすすめる。その作業だけで、見えていなかった問題が浮かび上がることが多い。


参考文献

  • Harvard Business Review, “Health Care Providers Can Use Design Thinking to Improve Patient Experiences”, hbr.org, 2017
  • IDEO, “A Hospital Centered on the Patient Experience” (Nemours Children’s Hospital case study), ideo.com
  • Design x Healthcare News, “デザイン思考と医療 — Kaiser Permanente(米国)の事例”, designxhealthcare.com, 2019
  • Design x Healthcare News, “デザイン思考と医療2 — Mayo Clinic(米国)”, designxhealthcare.com, 2019
  • PwC Japan, “100歳時代のヘルスケアデザイン”, pwc.com/jp, 2023

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