IBMのデザイン思考導入:10万人規模の組織変革とEnterprise Designの全貌
2012年から始まったIBMのデザイン思考大規模導入プロジェクト。10万人以上の従業員へのトレーニング、1,500名超のデザイナー採用、そしてIBM独自のフレームワーク「Enterprise Design Thinking」の誕生までを解説。
2012年から始まったIBMのデザイン思考大規模導入プロジェクト。10万人以上の従業員へのトレーニング、1,500名超のデザイナー採用、そしてIBM独自のフレームワーク「Enterprise Design Thinking」の誕生までを解説。
2012年、IBMはひとつの賭けに出ました。当時、エンタープライズソフトウェア市場での競争激化とSaaSへのシフトに直面していたIBMは、技術的な差別化だけでは生き残れないと判断し、「ユーザーエクスペリエンス」を競争優位の柱に据える戦略的転換を行ったのです。その手段として選ばれたのがデザイン思考の全社導入でした。
IBMの製品・サービスは当時、技術的な機能性では高評価を受けていましたが、使いやすさとユーザー体験の面で深刻な課題を抱えていました。エンジニア主導の開発文化の中で、ユーザーが実際にどう製品を使い、何に困っているかを理解する仕組みが十分に機能していなかったのです。
加えて、IBMのような大企業が直面する「スケールの問題」がありました。世界100カ国以上、従業員35万人以上の組織で、どうすればデザイン思考を一過性のトレーニングで終わらせず、日常の業務プロセスとして機能させられるか——これが導入チームが最初に向き合った問いでした。
IBMのデザイン思考導入を主導したのは、デザイン担当バイスプレジデントのフィル・ギルバートです。ギルバートは2012年にIBMに入社し、大規模組織でデザイン思考を機能させるための独自フレームワーク構築に着手しました。
最初に行ったのは、デザイナーの大量採用です。IBMは2012年時点で約100名だった社内デザイナーを、2016年までに1,500名以上に拡大する計画を立て実行しました。
採用基準として重視されたのは、エンタープライズソフトウェアの経験よりも「ユーザー視点で問題を定義し、プロトタイプを作って検証する」実践能力でした。デザイナーを単独チームに集めるのではなく、各製品チームに「デザイン担当者」として組み込む体制を採用し、デザイン思考を特定チームの専有物にしない工夫を施しました。
スタンフォードd.schoolやIDEOの5フェーズモデルを、IBM の規模と文化に合わせて再設計したのが「Enterprise Design Thinking(EDT)」です。
EDTの核心は3つのプラクティスです。
Hills(ヒルズ) は、チームが到達すべきゴールを「ユーザーにとっての成果」として定義するフレームです。「機能を実装する」のではなく「特定のユーザーが特定の状況で特定のことを実現できる」という形式で書かれ、チーム全員の判断基準となります。
Playbacks(プレイバック) は、定期的にステークホルダーを集め、ユーザーの視点から進捗を確認するレビューセッションです。単なる進捗報告ではなく、「ユーザーにとっての価値はどう変化したか」を問い続ける仕組みとして機能します。
Sponsor Users(スポンサーユーザー) は、実際のユーザーを開発プロセスに組み込む仕組みです。単発のユーザーテストではなく、特定のユーザーと継続的な関係を持ち、開発の各フェーズでフィードバックを得るというアプローチで、共感フェーズを一回限りのイベントではなく継続的なプラクティスにします。
10万人以上の従業員に対してデザイン思考を「知識」として伝えるため、IBMはオンラインコースとフィジカルなワークショップを組み合わせたトレーニングシステムを構築しました。
2016年にはデザイン思考のオンラインコースを一般公開し、IBMの社員以外にも開放しました。現在もIBM SkillsBuildやCourseraで受講可能です。また、デザイン思考の実践能力を認定する社内資格制度を整備し、各チームに一定比率の認定者を配置することを推奨しました。
2016年にIBMが発表したレポートによると、EDTを導入したチームの成果として以下のデータが報告されています。
ただし、これらの数値はすべてのプロジェクトに均一に当てはまるものではなく、チームのコミットメント、マネジメントの関与、ユーザーリサーチの質によって結果に大きな差があったことも報告されています。
IBMの事例が示す最も重要な教訓のひとつは、「大規模導入の困難さ」をあらかじめ設計に組み込む必要があるという点です。
ワークショップ形式のトレーニングで「デザイン思考を理解した」感覚を得た従業員が、翌週から通常業務のプレッシャーの中でどうその知識を使うか——ここに最大の課題があります。IBMはドット投票のような具体的なツールの使い方よりも、「ユーザーの視点から問いを立てる」というマインドセットの変容を優先しましたが、それは時間のかかるプロセスでした。
フィル・ギルバートが「5年計画」と明言していた通り、この変革は短期的な成果ではなく、組織文化の変容を目指した長期投資として設計されていました。
IBMのケースは、デザイン思考の導入を検討している大企業に対して、いくつかの重要な示唆を与えています。
スモールスタートの次を考える。ワークショップや1回のデザインスプリントで終わるデザイン思考は「体験」であって「文化」ではありません。IBMは「Hills」「Playbacks」「Sponsor Users」という繰り返し使えるプラクティスを標準化することで、一過性を防ぎました。
デザイナーの配置が変革を駆動する。デザイン思考の普及において、専門のデザイナーを各チームに埋め込むことは、トレーニングよりも効果的な「実践による学習」を促します。IBMが1,500名超のデザイナーを採用したのは、この論理に基づいています。
指標を設計する。「デザイン思考が定着しているか」を測る指標がなければ、取り組みは形骸化します。IBMは製品のテストフェーズでのユーザーテスト実施率、Sprint内でのユーザー接触回数などを内部指標として追跡しています。
IBMのEnterprise Design Thinking導入は、「デザイン思考は小規模チームのためのもの」という思い込みを覆した事例です。10万人規模の組織で、どうデザイン思考を生きたプラクティスとして機能させるか——その答えは、普及のためのフレームワーク設計、組織へのデザイナー埋め込み、そして継続的なユーザーとの接点の制度化にありました。
完璧に機能したわけではありませんが、エンタープライズにおけるデザイン思考の最も詳細な実践記録として、今日も多くの組織変革の参照点となっています。