デザイン思考×スポーツビジネス:ファン体験とアスリート用品革新の実践事例
Nike、Golden State Warriors、Formula 1チームなどスポーツ産業の先進事例を通じて、デザイン思考がファン体験とプロダクト開発をどのように変革するかを解説する。
Nike、Golden State Warriors、Formula 1チームなどスポーツ産業の先進事例を通じて、デザイン思考がファン体験とプロダクト開発をどのように変革するかを解説する。
スポーツは感情とデータが交差するフィールドだ。観客は感動を求め、アスリートは0.1秒の更新を追いかけ、チームは勝利とビジネスの両立を模索する。この複雑な欲求構造にデザイン思考を当てはめると、スポーツビジネスは「体験設計の問題」として見え始める。
スポーツビジネスの本質は体験の製造だ。チケットの購入から、スタジアムへの移動、入場、観戦、SNS投稿、家路——全行程がひとつのカスタマージャーニーを形成している。プロダクト(スポーツ用品)においても、アスリートが何を感じ、どこで限界を感じるかを観察しなければ、次世代の製品は生まれない。
デザイン思考はこの「体験の総体を可視化する」ことに長けている。カスタマージャーニーマップ、エンパシーマップ、プロトタイピング——これらの手法はスポーツの現場に直接適用できる。
Nikeが2012年に発表したFlyknit技術は、ランニングシューズの構造を根本から変えた。開発の起点は、エリートランナーへの徹底したエンパシーリサーチだ。
「素足で走っているような感覚がほしい」というランナーの声を、Nikeの開発チームは何年もかけて観察・記録した。従来のシューズ製造では、複数のピース(アッパー、スウォッシュ、補強パーツ)を縫い合わせる工程が重量と剛性を生んでいた。「縫い目を消す」という発想に辿り着くまでに、チームはニット技術の専門家との共同プロトタイピングを繰り返した。
Flyknit開発のプロセスはデザイン思考の典型例だ。
Flyknit技術はその後、バスケットボール・サッカー・クロストレーニングなど多くの製品ラインに展開された。材料の革新は、ひとりのアスリートの声を深く聴くことから始まった。
Nikeのデザイン思考が最も社会的なインパクトを持った事例のひとつが、Nike FlyEaseの開発だ。
2012年、脳性麻痺のある16歳のMatthew Walzerが、Nikeに一通の手紙を書いた。「自分でシューズを履くことができるようにしてほしい」という率直な訴えだった。Nikeのデザインチームはこのフィードバックを真剣に受け止め、Walzerを共同開発者として迎えた。
開発チームが直面した問いは「どうすれば片手だけで、あるいは補助なしに靴を履けるか」だった。既存のひも・マジックテープ・ファスナーではなく、完全に新しい開閉機構が必要だった。数年間のプロトタイピングとウォルツァー自身によるテストを繰り返した末、360度開くジッパーシステムを採用したFlyEaseが生まれた。
この製品が証明したのは、障害のあるユーザーを起点に設計することで、すべてのユーザーに有用な革新が生まれるという「エクストリームユーザーテスト」の原則だ。FlyEaseは後に、脳性麻痺以外の多様な場面——両手がふさがっている医療従事者、高齢者、ランナー——でも支持を集めるプロダクトに成長した。
2019年にサンフランシスコのMission Bay地区にオープンしたChase Centerは、NBAのGolden State Warriorsの新本拠地として、ファン体験設計の先進事例とされている。
Chase Centerの設計チームは、ファン体験の設計に際して、試合観戦だけでなく「スタジアムに来ることの全体価値」を設計の対象とした。駐車場からの動線、コンコースの食事体験、座席からのアリーナビジュー、アプリとの連動——これらが統合されたシステムとして設計されている。
開発プロセスで重視されたのは、過去の観戦者へのインタビューと現地観察だ。「どのタイミングでストレスを感じるか」「記憶に残る体験はどこで生まれるか」というエンパシーリサーチを、スポーツ施設設計の初期段階から組み込んだ。
Chase Centerにはコンサート・イベント機能も統合されており、スポーツ観戦以外の文脈でも「Mission Bayの体験のハブ」として機能するよう設計されている。単一用途施設から多目的体験施設への転換は、ユーザーの行動観察なしに実現できない発想だ。
Formula 1は、デザイン思考のプロトタイプ思考が極限まで実践されている産業だ。F1チームは毎レース週末ごとにマシンのパーツを設計・製造・テスト・投入するサイクルを回している。このプロセスは本質的に、高速イテレーションのデザイン思考だ。
McLarenのエンジニアリング文化は特によく知られている。同チームはデータ分析、空力シミュレーション、実車テストを組み合わせた高速フィードバックループを確立しており、仮説(新しいフロントウィングデザイン)→試作(CFD解析→実物製造)→テスト(実走行データ)→改善のサイクルを週単位で実行する。
レーシングドライバーは「エクストリームユーザー」だ。彼らの身体感覚からのフィードバック(「ブレーキングで鼻先が逃げる感じがする」)が設計変更の起点になる。定量データ(テレメトリー)と定性データ(ドライバーの感覚)を統合してインサイトを導く手法は、デザインリサーチと本質的に同じだ。
McLarenはF1技術から派生した素材・空力技術を医療機器、自動車、輸送機器に展開するMcLaren Appliedというビジネスも持っており、F1で磨かれたデザイン思考的なイノベーションプロセスが他産業に転用されている。
Adidasは2016年にドイツのAnsbach、続いて2017年にアトランタにSpeed Factoryと呼ばれる自動化製造施設を開設した。従来はアジアの工場での大量生産に依存していたスポーツシューズの製造を、ロボットと自動化によって先進国の消費地近くで実施するコンセプトだ。
Speed Factoryが目指したのは「ローカルの体験ニーズへの高速応答」だった。例えばニューヨーク向けには都市環境に合った耐久性と機能、ロサンゼルス向けには別の特性——そうした地域固有の需要を素早く試作・量産できる仕組みを構築しようとした。
Speed Factoryは2019年に閉鎖されたが、このプロセスで培った自動化ノウハウはその後もAdidasの製造革新に受け継がれている。製造プロセスにデザイン思考を適用し、ユーザーの地域特性に応じたカスタマイズを工業スケールで実現しようとした試みは、量産とパーソナライズの矛盾を解こうとする産業界の模索を体現している。
近年、スポーツ産業ではファン体験のデータ化が急速に進んでいる。スマートスタジアム化(センサーによる混雑検知、アプリによる座席サービス注文)、ウェアラブルによるアスリートのバイオメトリクス計測、ゲーム内行動分析によるeスポーツ体験設計——いずれもデータを通じてユーザーを深く理解しようとするエンパシーリサーチの延長だ。
MLBは「カスタマーサクセス」の概念をスポーツビジネスに持ち込み、チケット購入者の全観戦行動データを分析して、次シーズンの来場率や年間席更新率を高めるためのパーソナライズドアウトリーチを実施している。ファンを顧客と捉え、カスタマージャーニー全体を設計する視点は、デザイン思考のサービスデザインと直接つながる。
Nike FlyEaseが示したように、スポーツ産業にとってインクルーシブデザインは社会的責任であると同時に、イノベーションの源泉でもある。
パラスポーツ向け用具の開発も、この視点で語れる。義肢ランナー用の競技用カーボンブレード(Össur社のCheetah等)は、障害のあるアスリートのエクストリームニーズに向き合ったデザインが、産業全体の素材・構造設計技術を引き上げてきた歴史を持つ。
「普通のユーザー」ではなく「最も過酷な状況のユーザー」から設計を始めることで、より多くの人に価値をもたらす製品が生まれる——スポーツ産業はこの原則の生きた実験場だ。
NikeのFlyknit・FlyEase、Chase Centerのファン体験設計、F1の高速プロトタイピング——いずれの事例も、「ユーザー(アスリートまたはファン)の体験を起点にする」という共通の姿勢から生まれている。
スポーツ産業は感情移入が得意な産業だ。選手を応援することへの共感、試合の緊張感への没入、優勝の喜びへの同化——これらの感情的体験を設計の起点とするデザイン思考は、スポーツとの親和性が高い。
「どんな体験を生み出したいか」から始め、そのためのプロダクト・空間・サービスをプロトタイピングと検証のサイクルで磨く。スポーツビジネスにおけるデザイン思考の実践は、感情と機能が最高レベルで交差する領域での、人間中心設計の最良の教科書を提供している。