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Appleのデザイン思考 — 「どうあるべきか」から始まる製品設計の哲学

Appleの製品設計プロセスは、デザイン思考の手法書に載っている手順とは異なる。しかし「ユーザーを深く理解し、技術より体験を先に考える」という原則は共鳴する。Apple流デザイン哲学の核心を解読する。

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Appleはデザイン思考の「5フェーズプロセス」を社内で公式に採用しているわけではありません。「技術ではなく人間の体験から始める」「なぜこれを作るのかを問い続ける」「完成するまで妥協しない」——この哲学は、しかしデザイン思考の核心と深く共鳴します。

Appleのケースが示すのは、フレームワークより「どんな問いを持ち続けるか」の方が決定的だという事実です。

ジョナサン・アイブのデザイン哲学

ジョナサン・アイブ(Jonathan Ive)は1992年にAppleに入社し、1997年のスティーブ・ジョブズ復帰後、チーフデザインオフィサーとして2019年までAppleの製品デザインを率いました。

アイブが繰り返し語ったのは、「どう見えるかではなく、どうあるべきかという問いから始める」というアプローチです。インタビューや講演の記録から浮かび上がるのは、製品の「本質」を問い続ける姿勢でした。

「どうあるべきか(What should it be?)」——この問いは、「ユーザーは何を必要としているか」というデザイン思考の共感フェーズの問いと表裏をなしています。機能の羅列から始めるのではなく、製品が存在すべき理由、人の生活の中でどんな位置を占めるべきかを先に問う。このアプローチが、Appleの製品設計の起点です。

ただし注意が必要です。アイブのアプローチは、標準的なデザイン思考が強調する「ユーザーに直接インタビューして検証する」プロセスとは必ずしも一致しません。ジョブズは「フォーカスグループに頼らない」と語ったことで知られており、「ユーザーは自分が欲しいものを言語化できない」という信念が、直接的なユーザーリサーチより深い洞察を重視する姿勢につながっていました。

これはデザイン思考との相違点であり、Appleのケースを盲目的に「デザイン思考の模範」として描くのは正確ではありません。

iMac G3(1998年):「仕事だけのコンピューター」という定義を疑う

1997年、ジョブズが復帰した時点でAppleは経営危機にありました。翌年リリースされたiMac G3は、Appleを復活させた製品として語られます。

iMac G3のデザインが示すのは、「コンピューターとはどうあるべきか」という問いを根本から問い直した結果です。当時のパーソナルコンピューターは、ベージュの箱型で、机の上のスペースを大量に占有し、ケーブルで複雑に接続するものでした。これを「当たり前」と見なすのではなく、「なぜコンピューターはこの形でなければならないのか」と問う。

半透明のカラーシェルに包まれたiMac G3は、「コンピューターは生活空間に溶け込むものでありうる」という新しい定義を体現しました。技術的な新しさよりも、「人とコンピューターの関係を再定義する」という問いが製品の形を決めたのです。

このプロセスはデザイン思考の問題定義フェーズ——「解くべき問題を正しく定義する」——と深く響き合います。

Apple Storeのユーザー体験設計

2001年にオープンしたApple Storeは、製品設計だけでなくサービス体験の設計においてもAppleの哲学を体現しています。

従来の家電量販店では、製品はショーケースや棚に並べられ、客は「買いたいものを探す」体験をします。Apple Storeはこれを根本的に変えました。製品はすべてオープンに配置され、実際に触れ、使ってみることができる。Genius Barは「サポートカウンター」ではなく「専門家との対話の場」として設計されました。

「Geniusと話すために予約する」という体験は、医者や弁護士との約束に近い構造を持ちます。これは偶然ではなく、「Appleユーザーとして最大のサポートを受けるに値する」というポジショニングを体験として設計したものです。

デザイン思考的に分析すると、Apple Storeは「製品を売る場所」ではなく「Apple体験を提供する場所」として問題定義を行い、その定義に基づいてサービス設計を行ったケースです。

iPad(2010年):「コンピューターとスマートフォンの間」という新しい定義

iPadの開発背景についてジョブズが語ったのは、「Netbookのカテゴリに参入するつもりはなかった」という点です。既存のカテゴリの改善ではなく、「ラップトップでもスマートフォンでもない、新しい体験」を定義することが先にありました。

実際にやってみると——つまりiPadを初めて手に取ってみると——「触るだけで分かる直感性」が実現されていることに気づきます。これは技術的な制約からではなく、「どんな人でも迷わず使えるべき」という設計原則が先にあり、それを実現するためにUIを設計したからです。

「ユーザーが頑張って使い方を覚えなければならないのは設計の失敗だ」というアイブとジョブズの共通した信念が、iPhoneからiPadにかけての操作設計の根底にあります。

AppleのケースからデザイナーはNOTを学ぶべきこと

Appleをデザイン思考の成功事例として語るとき、見落とされがちな側面があります。

失敗事例も存在します。Apple Maps(2012年リリース当初)は地図の精度問題で大きな批判を受け、ジョブズ後のAppleがユーザーフィードバックを軽視した設計をしていたことを示しました。AirPower(ワイヤレス充電パッド)は2017年に発表されたものの、技術的な実現困難から2019年に開発中止が発表されました。

完璧な体験へのこだわりが、時に市場投入の遅れや製品の欠陥を生むという逆説も、Appleのケースが示す学びです。

また、Appleの方法論は規模と資源に支えられています。「どうあるべきか」を問い続けるための、数百人規模のデザインチームと数兆円規模の開発予算という文脈が前提にあります。このアプローチをそのままスタートアップや中小企業が採用しようとすることには注意が必要です。

デザイン思考実践者へのAppleケースの示唆

ワークショップでよく起こるのは、「Appleのようなデザインをしたいのでどうすればいいか」という問いです。この問いに対して、Appleが実践していることで最も模倣可能なのは、「問いを立てることへの投資」です。

「このプロダクトはどうあるべきか」「このユーザーの体験はどうあるべきか」「私たちは何のためにこれを作っているのか」——これらの問いを、チームの共通言語として持ち続けること。これはツールや予算なしに、今日から始められることです。

Appleの最大の学びは、特定の手法やプロセスにあるのではなく、「ユーザーの体験を優先する」という価値観の一貫性にあります。フレームワークより先に、その価値観をチームで共有することが、デザイン思考の導入における本質的な第一歩です。


参考文献

  • Walter Isaacson, Steve Jobs, Simon & Schuster, 2011
  • Leander Kahney, Jony Ive: The Genius Behind Apple’s Greatest Products, Portfolio/Penguin, 2013
  • Ken Segall, Insanely Simple: The Obsession That Drives Apple’s Success, Portfolio/Penguin, 2012
  • Apple Newsroom, “Jony Ive to form independent design company, with Apple as a client”, apple.com, 2019
  • Horace Dediu, “The Jobs of the iPhone”, Asymco, asymco.com, 2017

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