行政サービスにおけるデザイン思考の活用事例
英国GDS・米国USDS・デンマーク自治体・日本の行政DX事例を通じ、市民参加型のサービスデザインがどう機能するかを解説。200回以上のワークショップ観察から見えた公共部門固有の課題と突破口。
英国GDS・米国USDS・デンマーク自治体・日本の行政DX事例を通じ、市民参加型のサービスデザインがどう機能するかを解説。200回以上のワークショップ観察から見えた公共部門固有の課題と突破口。
行政サービスにデザイン思考が持ち込まれるとき、最初の抵抗はほぼ決まっています。「民間企業と違って我々には制約がある」「法律があるのでユーザー中心で設計できない」「前例がないものは承認されない」。この反応は世界中の公共部門で観察されるパターンです。
しかし この反応自体が「問題定義の失敗」を示しています。 デザイン思考は制約を無視する方法論ではなく、制約の中でユーザーの本質的なニーズを満たす解を見つける方法論です。制約は「与件」として受け入れながら、その中で最も市民に寄り添えるサービスを設計することは可能です。実際にそれを証明した事例が、世界各地に存在します。
2011年、英国政府は内部報告書「Maude Report」の中で、政府のデジタルプロジェクトが繰り返し遅延・予算超過・ユーザーから乖離した結果に終わっている実態を認めました。その象徴が「Universal Credit」のシステム開発で、当初予算の数倍のコストが発生していました。
この反省から2011年に設立されたのが Government Digital Service(GDS) です。GDSのミッションは「インターネット時代に見合った政府サービスをデジタルで提供すること」でしたが、その手法の核心は ユーザーリサーチに基づく反復的な設計 でした。
GDSが最初に取り組んだのは、700以上の政府ウェブサイトをひとつの統一プラットフォーム「GOV.UK」に統合することでした。このプロセスでデザイン思考が機能した方法は具体的です。
共感フェーズでは、GDSのユーザーリサーチャーが市民と毎週2回の対面インタビューを実施しました。「払い戻し請求書をどこから見つけるか」「運転免許更新のフローがどこで詰まるか」——生活の中で政府サービスを使う具体的なシーンを観察しました。特に低所得者・高齢者・デジタルリテラシーの低い市民への観察を意図的に優先しました。
問題定義フェーズでは、「政府のすべての情報をウェブに掲載する」という従来の発想を「市民が特定の目的を果たせるように設計する」という転換を行いました。 「政府が何を伝えたいか」ではなく「市民が何を達成したいか」を起点にした この転換が、GOV.UKのUXを根本から変えました。
設計原則の公開:GDSは「Design Principles」(10原則)を公開し、これをすべての開発の判断基準にしました。「Start with user needs(ユーザーのニーズから始める)」「Do less(より少なくする)」「Design with data(データで設計する)」などがその内容です。この原則の公開は、GDSの外部の政府機関にも影響を与えました。
GOV.UK移行後のデータでは、主要なトランザクション(運転免許更新・納税・給付申請)の完了率が移行前と比べて15〜30%向上したことが報告されています。ユーザー満足度(SUS: System Usability Scale)でも、旧来の個別サイトを大幅に上回りました。
より重要なのは、 GDSのアプローチが「政府のサービス設計方法」として他国に輸出された ことです。オーストラリア・カナダ・ニュージーランド・シンガポールなどの政府がGDSの設計原則を採用し、自国版のデジタルサービス機関を設立しました。
2013年10月、米国の医療保険交換所サービス「Healthcare.gov」がオープン当日から機能不全に陥りました。数億ドルを投じたシステムが、ユーザーがログインすらできない状態でした。この失敗の根本原因として分析されたのは、 エンジニアリングとシステム統合に集中し、実際のユーザーがどう使うかのテストがほぼ行われなかった ことでした。
この失敗を受けて、オバマ政権は2014年に U.S. Digital Service(USDS) を設立しました。シリコンバレーのテクノロジー企業からエンジニア・デザイナー・プロダクトマネージャーを短期雇用し、機能不全に陥った政府システムの再設計に投入するという、前例のない組織です。
USDSが取り組んだ事例の一つが、移民帰化局(USCIS)のオンライン申請システム「myUSCIS」の再設計です。従来のシステムは、ユーザー(主に移民・難民)が必要な書類・申請フロー・期限を理解するうえで、極めて使いにくい状態でした。
USDSのチームが最初に行ったのは 実際の申請者へのインタビュー です。移民コミュニティのNPOと協力し、英語が母語でないユーザー・デジタルリテラシーの低いユーザーを優先してリサーチしました。
発見された中核的な問題は「情報設計の失敗」でした。申請者が「今自分がどこにいて、次に何をすべきか」がシステム上から判断できない構造でした。 「ユーザーは頭がいい。システムが複雑なのであって、ユーザーが複雑なのではない」 というUSDSの基本姿勢が、設計方針を変えました。
再設計後のシステムでは申請完了率が向上し、コールセンターへの問い合わせが20%以上削減されたことが内部報告で示されました。
デンマークは公共部門のデザイン思考導入において、最も体系的な取り組みを行った国の一つです。2002年に設立された MindLab は、複数の省庁(経済省・労働省・教育省)が共同出資したイノベーションユニットで、デザイン思考を公共サービス設計の標準的な方法として確立しました。
MindLabが手がけた事例として広く参照されるのが、失業給付申請プロセスの再設計です。当時の申請プロセスは、失業者が膨大な書類を複数の窓口に別々に提出する構造でした。
MindLabのチームは、実際に失業した市民に同行して 「申請の旅(Service Journey)」 を観察しました。書類を準備する段階からハローワーク窓口での手続き・給付開始まで、ユーザーが経験する全ての接触点を可視化しました(サービスブループリントに近い手法です)。
観察から浮かび上がったのは、 「申請者が何度も同じ情報を異なる窓口に提出する」という構造的な問題 でした。この非効率は行政内部の縦割り組織構造を反映したものでしたが、市民の視点からは無意味な負担です。
再設計では「ワンストップ申請」が実現され、申請者の接触回数が大幅に削減されました。MindLabのアプローチは、 「市民の体験を中心に組織の壁を超える」 という、公共部門では最も難しいことを、ビジュアルな体験マッピングによって実現したものです。
2021年9月に発足した デジタル庁 は、マイナンバーカード・ワクチン接種記録・行政手続きのオンライン化という課題に取り組んでいます。初期のウェブサービス設計では「ユーザー中心設計原則」を採用し、外部のUXデザイナーやリサーチャーを採用しました。
具体的な事例として ワクチン接種記録システム(VRS)の設計 があります。接種会場での記録プロセスを、医療従事者・自治体担当者・市民という複数のユーザー視点から設計する必要がありましたが、異なるユーザーの文脈を統合する設計は典型的なデザイン思考の問いです。
神戸市は2017年から「Urban Innovation KOBE」として、市の現場課題をスタートアップと協働で解決するプログラムを運営しています。このプログラムの特徴は、 市の職員(現場担当者)とスタートアップが共同チームとして課題を定義し、解決策を開発する という、デザイン思考のチーム設計に近い構造です。
このプログラムが生んだ成果の一つが、空き家管理の効率化ソリューションです。現場の担当職員が「実際にどこで詰まっているか」を起点に課題定義が行われ、ITツールが設計されました。 「現場のユーザー(職員)が問題を定義する」という構造 が、従来の「IT部門が要件を定義してベンダーが作る」プロセスとは根本的に異なります。
民間企業と行政の最大の違いは、 失敗への社会的・政治的コスト です。民間でのプロトタイプの失敗は学習です。行政での失敗は税金の無駄遣いとして批判されます。
この文化的制約の中でデザイン思考を機能させるには、 「実験」という言葉より「パイロット(試行)」という言葉の方が受け入れられやすい という観察があります。「小規模な試行→学習→展開」というフレームを使うことで、反復的な改善プロセスを行政内部で正当化しやすくなります。
行政サービスのユーザーは均質ではありません。高齢者・障害者・外国人・低所得者——多様な属性のユーザーが同じサービスを使います。民間サービスの「ペルソナ設計」とは異なり、 特定のペルソナを想定した最適化が他のユーザーを排除しないように設計する 必要があります。
GDSが「Assisted Digital」(デジタルサービスを使えない人への支援)を設計原則に組み込んだのは、この問題への回答です。 「最もデジタルリテラシーの低いユーザーが使えるか」を基準にすることで、すべてのユーザーにとって使いやすいサービスが生まれる という原則です。
行政プロジェクトのステークホルダーは、市民・議会・他の省庁・委託ベンダー・労働組合・マスメディアと、民間の比ではなく複雑です。デザイン思考のプロトタイプとテストのプロセスを、すべてのステークホルダーに透明に見せながら進めることが、後の政治的な問題を防ぎます。
GDSが「Design in the Open」(設計を公開する)というアプローチを採用したのは、この理由です。ブログ・GitHubでのコード公開・週次の進捗報告を通じて、設計プロセスをブラックボックスにしないことで、政治的な信頼を維持しました。
行政サービスへのデザイン思考導入が成功する共通要因は3つあります。まず 「ユーザーリサーチを最優先にする」という明確なコミットメント です。「市民に会いに行く」ことをプロジェクトの初期から継続的に行います。
次に 「小さく試す」という許可を組織から得ること です。パイロットプロジェクト・試行期間・限定的な展開——これらのフレームを使って、反復的な改善のサイクルを制度的に可能にします。
最後に 「設計を透明にする」というコミットメント です。プロセスを公開することで、市民・議会・他のステークホルダーとの信頼を構築しながら前進できます。
制約は実在します。しかしその制約の中で、市民の生活に最も寄り添うサービスを探し続けることが、行政サービスにおけるデザイン思考の本質的な問いです。