デザイン思考 行政サービス改革|市民中心の公共設計7つの実践
「届かない給付金」「使われない窓口」——行政サービスが機能しない根本には、市民の実態を見ずに制度を設計する構造的な問題がある。GDS・ヘルシンキ市・デジタル庁の事例から、デザイン思考が行政に持ち込む7つの実践を解説する。
「届かない給付金」「使われない窓口」——行政サービスが機能しない根本には、市民の実態を見ずに制度を設計する構造的な問題がある。GDS・ヘルシンキ市・デジタル庁の事例から、デザイン思考が行政に持ち込む7つの実践を解説する。
「行政の手続きが分かりにくい」という声は、利用者の読解力の問題ではない。
英国政府デジタルサービス(GDS)が2011年末に設立された背景には、政府のデジタルサービスに対する国民の深刻な不信があった。当時の政府サービスの平均ユーザー満足度は54%(英国政府「Government Digital Strategy 2012」記載値)。同時期の民間デジタルサービスと比べて20ポイント以上低い。問題は技術ではなかった。「誰のために」「どのように使われるか」を起点に設計されていない、という構造的な欠落——それが核心だった。
GDSが採用したのがデザイン思考に基づくサービスデザインだ。行政サービス改革においてデザイン思考がどう機能するか、民間と何が違うかを、具体的な現場から見ていく。
行政サービスをデザイン思考で改善しようとすると、民間とは異なる3つの構造的制約に直面する。
制約1: ユーザーは「選べない」
民間サービスなら気に入らなければ他社に乗り換えられる。行政サービスには競合がない。住民票を取るのに他の自治体に行くことはできないし、確定申告を別の税務署に依頼することもできない。この「逃げ場のない利用者」の存在は、デザインの倫理的責任を格段に高める。不満があっても使うしかない。フィードバックが機能せず、問題が見えないまま放置される。
制約2: 「意図せぬ利用者」への対応
民間のプロダクトは特定のターゲットに向けて最適化できる。行政サービスは原則として全市民が対象だ。デジタルリテラシーが高い30代のビジネスパーソンも、高齢の農村住民も、障害を持つ利用者も、すべてが想定ユーザーに含まれる。最も脆弱な状況にある利用者がスムーズに使えるかどうかが設計の基準になる。これはアクセシビリティの問題であると同時に、共感フェーズのスコープが民間より広くなることを意味する。
制約3: 縦割り構造と意思決定の遅さ
デザイン思考のプロトタイプ・テストサイクルは「素早く作って、素早く検証する」ことを前提とする。しかし行政では、法規制・情報セキュリティ要件・予算承認・省庁間の調整が必要なため、一つの変更を実装するまでに数ヶ月から数年を要することがある。この「スピードの構造的非対称」を前提に、デザイン思考のどのフェーズをどの文脈で使うかを選択することが実践の鍵になる。
英国GDSが2013年に公表した「Government Design Principles」は10項目からなる。その最初の項目は “Start with user needs”(ユーザーニーズから始めよ)——行政の設計が技術や法制度から出発しがちだという現実への、明確なアンチテーゼだ。
GDSが設立直後に手がけたプロジェクトのひとつが「GOV.UK」の統合だった。それまで英国政府には750以上の独立したウェブサイトが乱立しており、市民はどのサイトで何の手続きができるか分からない状況にあった。GDSはユーザーインタビューと観察を徹底的に行い、実際に市民が政府サービスを使おうとするときの「認知地図」を把握した上でアーキテクチャを再設計した。
2012年のベータ公開から1年で、GOV.UK は政府の主要デジタルサービスを1つのプラットフォームに統合。利用者満足度は設立前の54%から86%に上昇した(英国政府公式報告書)。
行政でデザイン思考が機能することを、GDSは数字で示した。
フィンランド・ヘルシンキ市の実践は、行政サービスデザインの現場を具体的に見る上で欠かせない事例だ。
ヘルシンキ市は2010年代から「Forum Virium Helsinki」と協働し、市のサービスデザインに住民参加型のアプローチを積極的に導入してきた。特筆すべきプロジェクトのひとつが、移民コミュニティへの行政サービス改善だ。
従来の市の窓口では、言語の壁と手続きの複雑さから、移民住民が必要なサービスにアクセスできていないことが分かった。担当職員は「案内を多言語化すれば解決する」と考えていたが、ユーザーリサーチによって全く異なる課題が浮かび上がった。言語よりも、「誰に聞けばいいか」という信頼関係の欠如が最大の障壁だったのだ。
これを受けてヘルシンキ市が設計したのは、既存の移民コミュニティのネットワーク(宗教コミュニティ・母国語話者グループ)を行政サービスへの「つなぎ役」として公式に組み込む仕組みだった。テクノロジーや多言語対応ではなく、「信頼できる人を介在させる」という人間関係の設計が解決策になった。
日本でも変化の兆しは明確だ。2021年9月に発足したデジタル庁は、「利用者視点の原則」を設計思想の中心に据え、行政手続きの整備においてユーザーテストを実施している。
特に注目されるのが、マイナポータルのUI改善プロセスだ。デジタル庁は実際の市民がマイナポータルを使用する様子を観察し、「ログインのステップが分からない」「申請完了の確認ができない」といった具体的な詰まりポイントを特定したうえで改修を行った。ワークショップ現場でよく見られるのと同じ光景——「設計者には当然に見えることが、利用者には全く分からない」という発見が、行政サービスのレベルでも繰り返されていた。
デジタル庁の設計指針「デジタル社会の実現に向けた重点計画」においても、利用者視点・UXの向上が明示的に言及されている。行政の文脈でデザイン思考の語彙が公式に使われ始めた転換点として、デジタル庁の発足は記録しておく価値がある。
GDS・ヘルシンキ市・デジタル庁の実践を横断すると、行政文脈でデザイン思考が機能するための具体的なパターンが見えてくる。
実践1: サービスサファリ——職員が「利用者として」体験する
担当職員が匿名の市民として行政窓口を利用してみる。自分たちが設計したサービスを利用者目線で体験することで、「設計者の常識と利用者の現実のズレ」が初めて可視化される。
実践2: シャドーイング——実際の利用場面を追う
住民が申請書を書いている場面、窓口で手続きする場面を観察する。どこで手が止まり、どこで職員を呼ぶか。そのパターンが、設計の穴を教えてくれる。
実践3: HMW(How Might We)問いの転換
「申請書のフォームをデジタル化する」という出発点ではなく、「市民が必要なサービスにたどり着くにはどうすればいいか」と問いを立て直すことで、解決策の幅が広がる。問題定義フェーズの核心は、行政でも変わらない。
実践4: プロトタイプの「最小化」——紙とロールプレイで十分
システムを作る前に、紙のモックアップと職員のロールプレイで「この流れで市民は手続きできるか」を検証する。ITシステムの調達前に問題を発見する。それだけで修正コストは桁違いに小さくなる。
実践5: 「最も困難なユーザー」から設計する
デジタルリテラシーが低い利用者、日本語が第一言語でない利用者、心理的余裕がない状況(病気、失職直後など)で手続きを行う利用者を想定して設計する。この層が使えるものは、他の全員にも使える。共感フェーズを最も脆弱な状況に拡張することが、行政設計の出発点だ。
実践6: 職員を「共同デザイナー」にする
窓口の最前線で市民の困惑を毎日見ている職員は、膨大な暗黙知を持っている。その知識をデザインプロセスに引き込まない手はない。外部コンサルタントだけでは届かない解像度の問題定義が、ここから生まれる。
実践7: 「小さな成功」を早期に可視化する
行政の全体最適を狙った大型改革は実現に数年かかる。そのプロセスで関係者の意欲が失われる前に、1つの窓口・1つの手続きで効果を示す「パイロット成功事例」を作る。ダブルダイヤモンドの「Develop」フェーズを小規模に回すことが、大きな変革の入り口だ。
ただし、デザイン思考を持ち込めばそれで解決する、というほど話は単純ではない。
GDSの初代ユーザーリサーチ責任者(Head of User Research)を務めたBen Terrettは2018年の『Public Digital Blog』掲載インタビューで、「行政でデザイン思考が機能するかどうかは、最終的には組織の政治的意志の問題だ」と語っている(Terrett, 2018)。ユーザーリサーチで問題が明らかになり、解決策のプロトタイプが機能することが分かっても、予算・法規制・省庁間の権力関係がデザインの実装を阻む構造が行政には存在する。
MindLabとPolicy Labの運命の分岐——デンマークは閉鎖し、英国は継続——が示すのは、デザイン組織の「技術力」ではなく「政策的な位置づけ」の違いだった。公共部門デザイン組織の興亡事例で詳細を見てほしい。
技術としてのデザイン思考は、行政の文脈でも機能する。それを機能させるための制度的・政治的条件が整っているかどうかが、実践の成否を分かつ。ツールが正しくても、組織が変わる意志を持てなければ、調査結果は引き出しの中で眠る。
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