P&G × Roger Martin:デザイン思考で企業を変えた10年の実験
A.G. LafleyとRoger Martinが2000年代のP&Gで実践した「デザイン思考による経営変革」の具体的経緯と成果を解説。消費者を中心に据えた意思決定プロセスと統合的思考が、世界最大の消費財企業をどう変えたかを事例から分析する。
A.G. LafleyとRoger Martinが2000年代のP&Gで実践した「デザイン思考による経営変革」の具体的経緯と成果を解説。消費者を中心に据えた意思決定プロセスと統合的思考が、世界最大の消費財企業をどう変えたかを事例から分析する。
「消費者こそがボスだ(Consumer is Boss)」——A.G. Lafleyが2000年にP&G(Procter & Gamble)のCEOに就任した直後に掲げたこの言葉は、単なるスローガンではなかった。それは組織の意思決定プロセスを根本から書き換える宣言だった。
P&Gが2000年代に実践した変革は、デザイン思考の教科書的な事例として繰り返し参照される。しかしその核心は「デザインをカッコよくした」という話ではない。ロジカルシンキングとクリエイティブシンキングを統合する「デザイン思考」を、経営の中枢に組み込んだ構造変革だ。
このプロセスを支えたのが、Rotman School of Management(トロント大学)のDeanであったRoger Martinとの長期的な協働関係だった。
前任のCEOが突然辞任した後、A.G. Lafleyは2000年6月にP&GのCEOに就任した。当時のP&Gは株価が低迷し、組織は内向きになっていた。市場には積極的に参入しながらも、ユーザーの変化に鈍感という矛盾を抱えていた。
Roger Martin は Rotman School of Management の学長(在任1998〜2013年)であり、「対立する考えを同時に保ち、より優れた第三の解を生み出す」という「統合的思考(Integrative Thinking)」の理論を構築していた。
Lafleyは就任直後からMartinをアドバイザーとして招き、P&Gの意思決定プロセスに統合的思考の概念を持ち込んだ。この協働関係はLafleyの在任中(2000〜2010年)ずっと続いた。Martinは2007年に著した『The Opposable Mind』の中で、Lafleyを統合的思考の代表的実践者として取り上げている。
Martinの提唱する統合的思考は、デザイン思考の定義フェーズと深くつながっている。
通常の経営判断では、「コスト削減か品質向上か」「スピードか精度か」というように、対立する選択肢から片方を選ぶ。これは「分析的思考」の枠組みだ。
統合的思考では、その対立そのものを問い直す。「なぜこの2つがトレードオフだと思い込んでいるのか」を問い、両方を統合する第三の解を探す。
デザイン思考の定義フェーズでいう「問いの再構成(Reframing)」と構造的に同じだ。ユーザーが直面している問題の根本に立ち返り、前提ごと問い直すことで、既存の選択肢に縛られない解を見つけ出す。
P&Gでは、この思考様式が製品開発の会議から戦略立案の場まで組織に浸透した。「どちらの案がより良いか」ではなく「なぜこの2案しかないと思っているのか」という問いが、意思決定の標準になっていった。
Lafleyの「Consumer is Boss」は、デザイン思考の共感フェーズを経営戦略に組み込む宣言だった。
具体的な変化として目立つのは、P&GがConsumer & Market Knowledge(CMK)部門を大幅に強化したことだ。ユーザーリサーチを「マーケティングの補助業務」から「意思決定のインプット源」へと位置づけを変えた。Lafleyは社内の会議で、開発チームやマーケティングチームが現場に出て消費者と直接接することを繰り返し求めた。
もうひとつの具体例が「First Moment of Truth(FMOT)」という概念の提唱だ。P&Gはこの時期、消費者がスーパーマーケットの棚の前に立ち、商品を手に取るかどうか判断するその瞬間を「真実の第一瞬間」と定義した。数十秒のこの判断が購買行動を左右するという洞察から、パッケージデザインと棚での陳列方法を根本から見直した。
「Second Moment of Truth(SMOT)」は実際に製品を使う瞬間だ。この2つの「真実の瞬間」というフレームワークは、ユーザー体験の観察から得られた洞察をプロダクト設計に還元するデザイン思考のプロセスそのものだ。
P&Gが2001年頃から本格化させた「Connect + Develop(C+D)」プログラムは、デザイン思考の共感フェーズを組織の外にまで拡張した試みとして読める。
従来のP&Gは、R&Dを完全に社内でクローズドに行う方針だった。Lafleyはこれを変え、全イノベーションの50%を社外からの技術・アイデアの取り込みで生み出すという目標を掲げた。
C+Dの仕組みは、大学・スタートアップ・個人発明家・他業種企業から技術やアイデアを募り、P&Gが商品化するというモデルだ。単に「外部委託」するのではなく、外部の視点そのものをP&Gのイノベーションに統合する共創モデルだった。
このアプローチは、デザイン思考が重視する「ユーザー・専門家・多様なステークホルダーとの共感的対話」の組織規模への応用だと言える。P&Gが自社の枠の外にある知識と経験を「共感すべき対象」として扱ったことが、C+Dの成功の鍵だった。
P&Gとデザインコンサルティングファーム IDEOの協業も、この時期のP&Gのデザイン思考化を支えた要素のひとつだ。IDEOはHuman-Centered Designの実践を核に持つ組織であり、P&Gとは複数のプロジェクトで協力関係を持った。
IDEOとの協業が示すのは、P&Gが「デザイン」を自社内で完結させず、専門的な外部の視点を積極的に取り込む姿勢を持ったということだ。これはC+Dの論理と同根だ。
Lafleyの退任後、彼とRoger Martinは2013年に共著『Playing to Win: How Strategy Really Works』(Harvard Business Review Press)を出版した。
この本の中心的なメッセージは「戦略とは選択だ」というシンプルなものだ。しかしその選択のプロセスが、デザイン思考と深く結びついている。
著者たちは「Where to Play(どこで戦うか)」と「How to Win(どう勝つか)」という2つの選択を戦略の核に置いた。この2つの問いは、デザイン思考の「問いの立て方」と構造的に同じだ。「どの市場で競争するか」という前提を問い直し、「その市場でユーザーが本当に求めているもの」を再定義することで、戦略の選択肢を広げる。
P&Gの実践は、デザイン思考が「プロダクトのUX改善ツール」ではなく、事業戦略の意思決定プロセスそのものを変える枠組みであることを示している。
2009年にMartinが刊行した『The Design of Business: Why Design Thinking is the Next Competitive Advantage』(Harvard Business Review Press)は、P&Gとの協働から得た洞察を理論として体系化した一冊だ。
Martinはこの本で、企業が知識を生み出すプロセスを「知識のファネル(Knowledge Funnel)」として図式化した。謎(Mystery)→ヒューリスティクス(Heuristic)→アルゴリズム(Algorithm)という流れで、人間の知識は曖昧なものから効率化されたシステムへと変換される。
デザイン思考が重要なのは、このファネルの入口、つまりまだ答えのない「謎」の段階に踏み込む姿勢と方法論を持っているからだとMartinは主張する。多くの企業はアルゴリズム(効率化・最適化)の段階に留まり、新しい謎に踏み込むことを避ける。P&Gが2000年代に行ったのは、謎の段階に積極的に踏み込み、そこから新しいヒューリスティクスを作り出す実践だったと読める。
デザイン思考は「ツール」ではなく「思考の枠組み」だ。 P&GはIDEOのワークショップを実施したからデザイン思考を実践したのではない。組織の意思決定プロセスにユーザー視点を組み込む文化的変革が本質だった。
外部との協創は「弱さ」ではない。 C+DもIDEOとの協業も、P&Gが「社外の知恵が必要だ」と認めることから始まった。これはデザイン思考が教えるオープンマインドネスの経営版だ。
戦略とデザインの境界を壊すこと——これがLafleyとRoger Martinの実践が示した核心だ。「戦略はロジカルに、デザインはクリエイティブに」という分離が、多くの組織でデザイン思考の影響を表面的なUX改善に留める。この境界を取り除いたときに何が起きるか、P&Gの10年がひとつの答えだ。